用手排尿

用手排尿とは、介護の仕事をしている方ならたとえ言葉は知らなくとも「ああ、ああいうことか」とおわかりになるだろう。手で下腹部を圧迫し、排尿を促す方法のことである。

先日、入居者さんのオムツ交換をした際、普段は尿量が多いのに非常に少なかったため、手で腹圧をかけてみたところ、一回分程度と思える排尿があった。

同じ失禁でも、だらだらと少しずつ出続けるのではなく、ある程度溜まってから出る方が、オムツを外しやすい 。出るタイミングでトイレに座ってもらえば良いのだから。
つまりこの方も、トイレに座っていただき、手で腹圧をかけて排尿を促すことを続けていけば、オムツを外せるかもしれない。

ただ、ご本人さんは認知症状が強いので理解はできないだろうし、無理にトイレに座らされてお腹を押されるという体験が、精神状態にさらに悪影響を及ぼす可能性もある。
ただ、通常のオムツ交換も激しく嫌がられるのだから、どうしたって排泄介助を心穏やかなままで済ませることはできないとも言える。
これがいわゆる「オムツ外し」の難しいところだ。

いずれにしても、今のうちの施設ではオムツ外しどころではないが……

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排泄ケアの宿命

「自尊心に配慮し、排泄介助の際には○○します」という文章をケアプランに書くことがある。

日常的に、排泄という行為、また陰部や排泄物を他人に見られることは、全ての人が抵抗を感じることである。
それを可能にする方法は2つしかない。相手を卑しめるか、己を卑しめるかである。

古の王族・貴族は、身の回りのことを全て召使に手伝わせており、当然裸身や排泄行為を彼らの目の前に晒していたと言われる。それが事実であるかどうか、ざっとネットで検索しただけでは根拠となる文献などを見つけられなかった。
代わりと言っては何だが、会田雄次『アーロン収容所』という本のことが複数のページで言及されていた。著者がイギリスの捕虜となった時の話で、捕虜となった彼が清掃のために入って行った部屋に白人女性が全裸でいたのだが、彼が入って行っても顔色一つ変えなかったという。白人にとって、有色人種は人間とは考えられていなかったのだ。
相手を自分と同じ人間とみなしていなければ、羞恥心など感じる理由はない。我々が犬や猫の前で裸になっても何も感じないのと同じように。
つまり相手を自分よりも卑しめていたわけだ。

まあ、ここで人種差別について語るつもりはない。それは人類の歴史の中で事実として存在し、そして今なお尾を引いているが、過去に囚われていても仕方がない。

また羞恥心の解消は、逆に自分を相手よりも卑しい存在とみなすことでも成立する。自らを「下の世話を他人にしてもらわなければならない情けない存在」とみなすわけだ。
これは自信を失わせ、抑うつ状態にさせることもあると思われる。

いずれにしろ、身体介護、特に排泄ケアにおいては、被介助者と介助者が、対等な関係であり続けるのは容易ではない。どうしていけばいいのか、私にはその答えはいまだ見えていない。

トイレでの更衣と、立位でのオムツ交換

先日、うちの管理者より以下のような指示があった。

  1. トイレで更衣介助をしないこと。
    自分はトイレで着替えるのか? 自分や、自分の家族がされて嫌なことは入居者さんにもしないように。

  2. オムツ使用の方に、トイレで立位のままオムツを当てないこと。
    新人には困難な作業だし、入居者さんの負担にもなる。ベッド上で行うこと。

まず断っておくが、私はこれらの指示に対して異を唱えるつもりは全くない。以下は、単に感じた事、考えたことを書き留めておくだけである。

①についてだが、実のところ、私もトイレでの更衣介助を行うことがある。というよりも、それが良くないことだとは考えてもみなかった。そこで、疑問点を列挙してみる。

1. 失禁時、トイレへお連れして、そこで汚れた衣類から新しい衣類に着替えていただくということは頻繁にある。それと、普段着⇔パジャマの更衣は分けて考えるべきなのだろうか?

2. 私自身はトイレで着替えることに抵抗はない。朝、トイレのついでにということは今でもある。それに、トイレで着替えるのが嫌だという人は、ユニットバスではどうするのだろう? トイレでの着替えを非常識と考える人が多ければ、ユニットバスなどというものも普及しないのでは?
また、一般的にも、トイレは更衣の場所の一つとして認識されているのではないか(参考:オフィスのトイレに関する意識調査)。ただ、「自分の家での更衣とそれ以外の場所での更衣は別」、あるいは「現在の高齢者の世代の感覚ではどうか」という問題もあるだろうとは思うので、「トイレで着替えるのはおかしいことではない」と主張するつもりはない。

3. 着替えをベッドサイドで行うのと、トイレで行うのと、衛生的にはさほどの違いはないだろう(トイレに専用の履き物を用意しているわけではないので)。つまり、問題はむしろ、介助の際に衣類が床に触れないように配慮することではないか? そうした配慮は現在のうちの施設で行われているか?

まあ、私自身、決して常識的な人間ではないことは自覚しているので、素直に今後は気をつけていきたいと思う。

次いで、②について。これも私は行うことがある。以下、同じように疑問点を。

1.トイレで、入居者さんに立っていただいたままオムツを当てることがいけないのであれば、車椅子にオムツを敷いておいて、その上に座ってもらって当てる、という手順をとればいいだけのことでは?

2.立ったまま、あるいは車椅子上でオムツを替えるのは、確かに新人には難しいと思う。しかしこれらは、介護職員として当然に必要とされる技術ではないか?
理由は、職員が楽をするためなどではなく、オムツ使用の方が一般浴する際、あるいはトイレに行きたいと訴えられた場合に必要となるからだ。立位や車椅子上でのオムツ交換ができないということは、これらの介助が行えないということでもある。
現在、うちの施設にそういう方はいらっしゃらないので、少なくとも当面はできなくとも何とかなるが……

3.立位保持訓練の機会になるのでは?
ただ、これは同時に、確かに入居者さんに負担をかけることでもある。そのため、誰に対してでも好ましいこととは言えない。アセスメントを経て判断されるべきである。

というところだ。これについては、現在のうちの施設の、とにかく新人を定着させ育てねばならない、という事情に鑑みた指示なのかな、と思う。だから素直に従うつもりである。

いろんな見方があるものだな、と思った。だから介護は奥深く、そして面白い。

訴えに振り回される

うちの施設に、胆管がん末期で認知症の方がいる。
痛みも倦怠感も強いと思われるのだが、おそらくは身の置き所がないのだろう、ベッドに入ったり車椅子に移乗して起き出したりを繰り返される。
そしておそらくは腹痛を尿意や便意に置き換えているのだろうと思われるが、頻繁にトイレに行かれる。時には戻って来てから数分ともたない。
少し前まではトイレの動作は自立していたのだが、今は体力も落ちており、転倒のリスクが高いため職員が介助している。そのためトイレへの行き来が始まったら、介助する職員はただそれだけに追われ、その他の仕事は全くできなくなるほどだ。せいぜい車椅子を自走してトイレまで辿り着く間、傍から離れられるだけ。

多くの職員は、言われるがままにトイレ介助を行っているようだが、私はあまりに間隔が短いようであれば、気を逸らせてベッドや食堂へ誘導している。トイレの動作も体への負担となるだろうし、トイレに座っても何も出ず、痛みも軽くならなければ、却って辛いのではと思うからだ。

また、もう一人別の方。
以前にエントリ「照明と昼夜逆転」で書いた方だが、相変わらず部屋の灯りを消してと訴えられる。一時期はそれでも灯りがついている時間が長くなっていたのだが、最近は逆戻りだ。職員が安易に訴えに従った結果、居室は好天の日の真昼間以外は薄暗い。これではメラトニンの分泌のリズムも崩れ、昼夜逆転して、夜中に大声を出してくれと言っているようなものだ。

高齢者は眩しさを感じやすいと言われるので、眩しいというのもある程度は事実だろう。しかし食堂などではまず眩しいとは言われないので、意識がそこに向いてしまう場合にのみ訴えが現れると思われる。だから私は、午後8時から午前6時までの間以外は明かりを消さない。
「灯りを消して」と訴えられたら、灯りを消す代わりに、その方が嫌がること、例えば居室の扉を閉めるなどしておく。すると訴えは「戸を開けて」に変わるので、それを叶えてあげると、以後灯りを消して欲しいという訴えが現れず、テレビを眺められていたりする。

職員が灯りを消したからと言って、以後は静かに臥床しているというわけでもない。今度は「食べる物おくれ」「お水おくれ」と訴えられたりする。それは主治医から禁じられているので(ガーゼで口を湿らす程度のことも!)職員は結局、訴えに応えられなくなる。

訴えに耳を貸すことは大切だ。しかし、それは必ずしも訴えに従うことだとは思わない。
その方が本当に望んでいることと、現れる言葉とは必ずしも一致しないものだ。認知症の方であればなおさら。
前述した一人目の方であれば、やはり痛みを取り除くことだろう(倦怠感や身の置き所のなさに対処するのは難しいが……)
二人目の方は、寂しいのだと思う。

また、訴えのない方には何もしなくて良い、とも思わない。言葉に囚われていると、それも見えなくなってしまうのではないか。

お風呂に入る

「お風呂に入る」という言葉が指し示している行為は、具体的にはどこからどこまでを指すのだろうか?

最近、お風呂を拒否される認知症の方がいる。以前はそんなことはなく、むしろお好きだったのだが、いつの頃からか「入らないよ」と言われるようになってしまった。

寒がりな方なので、「温まりますよ」などと誘ってみるのだが効果なし。入りたくない理由を伺うと、「具合が悪いんだ」などと言われる。具体的にどこかが痛いとか、怠いとか、めまいや吐き気がするとかいうこともないようなので、おそらくは面倒なのだろう。

日を改めることで入っていただけるのならもちろんそれで構わないのだが、毎日声をかけ続けても入ってもらえないとなると、訴えにそのまま従い続けているわけにもいかなくなる。

そこで、「わかりました。お風呂は入らなくてもいいですよ。でもずっと同じ服着てるから、着替えだけしましょう」と脱衣所に誘導。「じゃあ脱ぎましょう」と服を脱がせ、「さあ、さっとシャワーだけ浴びましょうね」と浴室へ。

「お風呂なんて入らないよ!」とそこでまた言われるので、「わかってます、お風呂は入らなくてもいいですよ。だからシャワーだけ。ほら、このまま裸でいると寒いですよ。温かいシャワーをかけますから……」とシャワー浴を始める。

つまり私の言い分としては、「お風呂に入る」という言葉は「湯船に浸かる」という意味で使っているのであって、シャワーだけならお風呂に入ってもらうことにはならない、つまりその方を騙しているわけではない。
と、つまりはこういうことなのだが、これは苦しい言い訳だろうか? 私はその方を騙してお風呂に入れているのだろうか?

ちなみにその後どうなるのかというと、シャワーを頭からかけると「早くやめとくれ! もういいよ!!」と言われるので、「わかりました、もうやめます」と答えてシャワーを止め、シャンプーで洗い始める。
そこで間もなく再び、「やめとくれって!」と言われるので、「わかりました、やめますね」と言って、再びシャワーを頭からかける……という調子。つまり「やめる」という言葉を、入浴を中止するという意味ではなく、お湯をかけたり、シャンプーしたりといった一つ一つの行為を終えるという意味に置き換えているわけだ。これもズルいだろうか?

その後は、湯船には入られることもあれば、入られないこともある。そこは無理強いはしない。
そして上がった後は、特に機嫌が悪いなどと言うことはない。やっぱり単に面倒だったのだな、と思う。

見方によっては確かに騙している。だが、このように言葉の持つ曖昧さをうまく使ったっていいじゃないの、と思うのだった。