対人関係を売る商売

いきなりだが、昨日のエントリのタイトルは失敗だった。
介護がサービス業かどうかというのは、「サービス業」という言葉をどう定義するかの問題でしかない。単なる言葉遊びだ。私の興味がそこにあるわけではない。
「お客様は神様です」という考え方が当たり前となっている、現代の日本における他のサービス業と違い、「様」でなく「さん」で呼ぶサービス業としての介護とはどういうものか。それを考えてみたかったのだ。

そもそも、考えているうちに、サービス業とは何なのかも分からなくなってきた。例えば昨日の時点では、何の違和感もなく飲食業をサービス業として書いているが、飲食業は「調理や給仕、その他食事に付随する楽しみという形のないものを提供するサービス業」なのか、「調理済みの食品を売る小売業」なのか……まあこんなことを突き詰めてどうなるというものでもない。

介護がサービス業であるとして、その商品は何か。身体介護、生活援助、相談、機能訓練やリハビリテーション、そしてケアマネジメント。もちろんどれも正しいが、こうやっていくら羅列していっても、「これで全部です」とはならないような気がする。

それは、介護が、利用者さんが生活していく上で不自由していることを一つ一つ補っていくものというより、生活全般を支えるものであるからだ。
例えば、食事を食べなくなった方がいるとする。その点を補うには、食事を介助すれば良い。
しかし、それで事足りるとみなす者はいないだろう。食べられないのは何故か? 好き嫌いはあるのか、食欲はあるのか、嘔気や不快感はないか、歯は痛くないか、手は充分に動くのか、嚥下機能はどうか、気がかりなことはないか、睡眠はとれているか、そもそも目の前に食べ物が置かれていることを認識しているか……アセスメントを行い、それに適した支援が必要である。
仮に食べられないのが睡眠不足による眠気のせいだとしたら、生活習慣を改善する手伝いをしなければならないこともある。それには睡眠薬の服用が必要かもしれないし、日中の活動が必要かもしれない。
職員が観察し、計画を立て、体を動かす……それが介護サービスの扱う商品であるのは確かだ。だが、これで全てかというと、まだ欠けているものがある。

介護職員は利用者さんにとって、自分の話を聞いてくれる人であったり、寂しい気持ちを紛らわしてくれる人であったり、喜びや悲しみを分け合う人であったり、自分を評価してくれる人であったりもしなければならない。
この場合、商品となるのは対人関係そのものである。

介護職員は完全に家族の代わりになることはできないし、またなるべきでもない。しかし、だからと言って常に一定の距離を保ち続けなければならないわけでもない。大切なのは利用者さんがどういった人間関係を求めているのかであり、そこではサービスの提供者と収受者といった立場を超えたかかわりが必要になることもある。

これが介護のサービス業としての特異なところである。
サービスの提供者と収受者の当人間で、人間関係を商品とする。こういう業種で、提供者と収受者の距離感を他のサービスと比較しても意味がないのではないか。

もっとも、これは介護においてしか成立しないわけではない。例えば、料金を支払うと恋人の役を演じてくれる異性を派遣する、そんなサービスがあってもおかしくないし、もしかすると現にあるかもしれない。
仮に、あなたがそういうサービスを利用したとする。そこで恋人役として派遣されたスタッフが、あなたに常に敬語で話しかけてきたらどうだろうか。それでは恋人気分が出ないから止めて欲しいと言ったにもかかわらず、「あなたはお客様ですからそんなことはできません」と突っ撥ねられたら、あなたは興醒めするのではないだろうか?

なんかこの例えは巧くない気もするが、いずれにしろ介護を他のサービス業と比較し、かくあるべきと語る人は、提供する対人関係の範囲を限定してしまっていると思う。

介護職員に、自分のことを「様」と呼んで欲しいと思う利用者さんは多くないだろう。だから基本的には「さん」付けで良い。ただし、「様」を付けることを望む、あるいは認知症状のために付けることが望ましいとみなされる方がいれば、それに応じる必要があると思う。
敬語で話すべきなのかということも、それと同様だと思っている。

もし、毎日マイペースな生活をされていて、介護職員が行う必要があるのは食事を用意し、部屋を掃除し、洗濯をし、車椅子やトイレへの移乗をお手伝いすることだけ。ご家族さんが頻繁に面会に来られていて、他の入居者さんとのお話も楽しんでいるというような、対人関係としてのサービス提供を必要としない方もいる。職員がそうした方に対して敬語を使わないのは、人間関係の押し売りであり、許されない。
しかし職員をご家族さんと間違え、「兄ちゃん」と呼び、親しげに話しかけて来る方に敬語を使うのが正しいとは思えない。それは押し売りとは逆に、販売拒否になり得る。

そういうものではないだろうか。

介護はサービス業か

下野隆祥さんの『世界一のサービス』の電子書籍版を購入し、読書中。
さすが一流の人は違うなあと思いながら、サービスと介護について考えている。

介護は形のないものを提供して対価を受け取っているという意味においては、紛れもなくサービス業である。「介護サービス」という言葉に違和感を感じている人はほとんどいないのではないか。

これは決して悪いことではない。介護を、施政者からの一方的な「施し」から、事業者と利用者との対等な関係に引き上げた結果だと言うことができるからだ。

さて、介護を他のサービス業と比較する人がいる。例えば、他のサービス業、飲食業などを引き合いに出し、そうした業界では客に尊敬語ないし丁寧語で話すのが当然であるから、介護も利用者さんに敬語で話すのが当然、というように。

なるほど。
ということは、その方は利用者さんに対しての呼び方も、「さん」付けではなく、「様」付けなのだろう。飲食業がそうである以上、そうしていなければ矛盾する。自分の主張にとって都合のいいところだけ見ていることになってしまう。
現代の日本において、サービス業では客に「様」を付けるのが当たり前なのだから、介護業界でもそうすべきというのは間違っているとは言えない。賛同はしないが、そういう考え方もあって良いだろう。

私は、エントリ「お客様は神様か」でも書いたが、そもそもサービス業全般で、客に「様」付けで敬語を使うことの方がどうかしていると思っている。全ての業種で、店と客とは対等の立場で良いのだと。

介護業界で利用者さんに丁寧語を使わなければならないのは、利用者さんは自分よりも遥かに年長者であるからだと、私はこの仕事を初めた頃にそう教わった。
その方が個人的には納得がいく。日本人にとって、儒教主義の方が、「お客様は神様です」よりも歴史が長い。

なぜ日本は、サービス業だけでなく、第一次産業や第二次産業においても、売り手よりも買い手の方が上であるかのような社会になっているのだろうか。
この理由は、大きく分けて3つあると思う。一つ目は、「お客様は神様です」という言葉のため。二つ目は士農工商つまり商人は低い身分とされたことの名残。三つ目は、ホテルやレストラン業からの広汎化である。

ホテルやレストラン業は、西欧、特にイギリスの影響を受けた。イギリスは階級社会であり、今も貴族の称号を持っている人がたくさんいる。そしてそうした階級が利用するホテルやレストランは、庶民が利用するものとははっきり分かれている。
顧客が貴族ばかりであれば、そこで働く者が顧客に「sir」を付けるのは当然である。日本の高級なホテルやレストランもそれに倣い、顧客には敬語を使って「様」と呼んだ。しかし戦後の日本では階級はなくなっており、そのしきたりが何の抵抗もなく庶民の間にまで広がったというわけである。

そう、ただそれだけの話なのだ。
それまでは、身分制度や儒教主義から発生する上下関係においてのみ使われていた敬語が、西洋文化を模倣する過程で取り込まれてしまったのである。

だからと言って、既に世間でのしきたりとなっているものに背いても仕方がない。利用者さんに「様」を付けるのに抵抗があるのならば、介護を他のサービス業とは差別化しなければならないだろう。

……明日のエントリに続く。

接客

先日から、ブログの左カラムの一番下に「My Shopping List」として、私がこれから買うもののリストを置いてある。
そのリンクから購入することで、自分が買っても自分のところにアフィリエイト料が入るようにしたわけだ。そのせいで介護に関するブログなのに、介護と全く関係ないDVDやCDなんかの商品ページへのリンクが貼られているわけだが、どうかご容赦を。

現在そのリストの一番上は下野隆祥の『世界一のサービス』という本である。接客業としての介護というのを改めて考える材料になるかと思い、読んでみようと思った。

私が以前勤めていた法人は、接客に力を入れていた。それが全てだったと言っても良い。
その前の職場で、あまりの殿様商売ぶりに嫌気がさし、「このまま自分はここにいても成長できないし腐っていく」と思い、接遇に力を入れている所へ移ろうと決めていた。

その法人のデイサービスは、高級なレストランのようであった。

職員の仕事は、朝、テーブルのセッティングなどからスタートする。
「今日は○○さんが来られるから、きっとこのあたりに座るだろう。お気に入りの椅子はここに置いておこう。その後でお友だちの○○さんが来たら、こちらに誘導しよう。週刊誌と、フットマッサージ機はこのあたりに置いておけばいいだろう。○○さんはこのあたりに座るかな。この間もらったお花を飾っておけば喜んでいただけるだろう」
といった具合である。そして花を切り戻したりしながら、花瓶に挿し、テーブルや下駄箱などに飾っていくのだ。
それと、前日に洗濯して干しておいた、トイレで手を洗った後に拭くハンカチ(むろん一回使用したら洗濯するので、膨大な枚数である)を畳んでトイレに配る、などという作業もあった。

利用者さんが到着すると、手の空いている職員は全員お迎えに出る(これは当たり前のこととして多くのデイでやっているかな?)。そして席に着かれたら、すぐに飲み物(コーヒー、紅茶、緑茶、ココアなど)をお出しするのだが、各々の利用者さんの嗜好は一度で覚えることが求められた。この方はコーヒーはブラックで、この方は砂糖だけで、またこの方は少しぬるめで……といったように。スプーンや砂糖などをソーサーにどのように置くかということまで決められていた。

昼食も力が入っていた。介護事業所で出される食事と言えば、食べ物を盛りつけた食器をお盆に全部載せておき、お盆ごと配膳してそれで終わり、というのが普通だろう。しかし、そこのデイサービスでは違っていた。
おかずは一汁四菜。肉か魚かを選んでいただくメインディッシュは1つの皿だが、煮物や和え物などの小鉢は一人前ずつ箱に入れ、冷めないように蓋がされている。まずはその箱を利用者さんのところに配り、次いでメインディッシュ、最後にご飯と汁物をよそって、熱々のうちに利用者さんのところへお持ちするのである。
おかずの小鉢が箱に入ったままだと食べにくい方もいるので、そういう方には箱からお出ししてあげた。食べている最中も、常に気を配り、お皿や小鉢を並べ直したり、食べ終わった食器が邪魔であると思えば素早く下げた。

また、食堂には職員が腰を下ろす場所が一つもなかった。
食事介助は目線を利用者さんと同じ高さにすることが重要だが、自分も椅子に座っていなければそれがやりにくい(ずっと中腰でいることなどできないし、立ったままで上から介助するわけにはいかないので、傍らに跪くしかない)ので、さすがにそれはどうかと思ったが、そうして食事介助に1対1で付いている職員以外は、立ったままでフロア全体を見渡し、ウェイターのように動くのである。

同性介助は当たり前、言葉遣いも完璧な丁寧語である。
ここまで介護をサービス業として徹底したところは、少なくともうちのような田舎では他になかった。それで食費などの料金は周りのデイサービスと同程度。決して高いお金を取っていたわけではない。
私はそれを誇りに思っていたところもあった。

にもかかわらず、私がその法人を飛び出した理由は、理事長による利用者の選別志向と、言うことをころころ変えることが許せなかったからである。言っている内容だけならまだしも、サービスの内容や料金をしょっちゅう変えられるのでは、利用者さんはたまったものではない。まあ、このことは詳しく書いても仕方がないので書かない。

そして今度は、看取りができる家庭的な施設がいい、と思って今のところに移ってきた。

今日のエントリは、私はこういうところで勤めていました、という思い出話でしかない。
だが、接客の重要性、つまり顧客のことを知りそれに合わせるということの大切さは、何もホテルやレストランのようなサービスにおいてのみ生きてくるわけではない。介護施設にも、介護施設ならではの良い接客というものがあるはずだ。

それを考えてみようかと思ったのである。

お客様は神様か

三波春夫が言ったとして有名な、「お客様は神様です」という言葉がある。
もともとの意味はオフィシャルサイトのここをご覧いただくとして、一般的には、「お金を払ってくれる人がいるおかげで商売が成り立つのだから、そのことを感謝し、お客様を崇めるべきである」という意味で使われることが多いようだ。

しかし、こんな考え方が受け入れられるのは日本だけではないだろうか。外国では、店で買い物した客が代金を支払って「Thank you.」と言うのはごく当たり前の光景だ。
日本では、「お客様は神様」なんて妙な威張り方をせずに「お互い様」と考えることが、どうしてできないのだろう。
三波春夫の言葉が誤解されて広まったことも一因かもしれないし、もしかすると、江戸時代の身分制度、いわゆる士農工商では商人が一番身分が低いとされたことも関係あったり……しないか(^-^;;

さて、介護サービス事業者としては、どういう態度であるべきなのだろう。

「代わりにじいさんばあさんの面倒を看てあげてるんだから、感謝されて当然」という態度の事業所はまさかあるまいが、「利用していただいていることへの感謝を忘れず、常に下手に出る」という態度を徹底しているのは、一部の高級有料老人ホームくらいではないか。大抵の事業者は、サービスを提供して対価をいただくことは対等の関係であるとみなしていると思う。

それでいい。
卑屈であること(謙虚であること、ではなく)は、傲慢であることとイコールなのである。
普段必要以上にへりくだっている者ほど、関係性が壊れ得る事態に直面した時には、あっさりと掌を返してしまう。これは人間心理としては当然のことかもしれない。
私の前の職場では、理事長が接遇に厳しかった。また理事長は独創的な発想の持ち主でもあったので、私はそれが気に入って転職したのだが、やがて傲慢さが鼻につくようになってしまった。例えば、流涎があったり、トイレを汚してしまう利用者さん、または認知症状の強い方に対して、「今後はお断りしてください」とスタッフに指示したりするのである。それが私には納得できなかった。心身の問題を理由に強い態度に出ることは、介護サービス提供者としては間違っていると思う。

一方、利用者さんやご家族は、時に理不尽な要求をすることもある。それに対し、できないものはできないと毅然とした態度をとることは、責任を持ってサービスを提供するためにはむしろ必要なことでもある。
しかしそれでも、一旦は相手の主張に自らの心を重ね合わせて、クレーム内容そのものではなく、その背景にあるもの――それは、例えば親を施設に預けていることへの罪悪感だったり、施設への不信感だったりする――に思いを馳せる態度も必要ではないか。

「クレームは宝」とよく言われる。そのことを常に心に留めておきたい。