言葉で伝えること

すべからく学問というものは、現象を正確に記述することを目指す。
記述とは、数式や図式によって行える自然科学の一部を除いて、言葉にすることである。

しかし言葉は、そもそも現象を記述するのにさほど有効な手段ではない。言葉はあくまで記号であり、シニフィアン(文字や音声)とシニフィエ(意味内容)、そしてレフェラン(それらが指し示しているそのもの)との関係は万人に共通しているわけではない。
言語が決定しているのはシニフィアンの表記と発声だけである。シニフィエは辞書や法令などにより統一が図られはしても、それが、その言語を使う者の間で統一されることにはならない。レフェランも同様である。

「ネコ」という文字と発音は日本人なら誰でも知っているだろう。しかし、ネコという言葉を用いる時に、必ずネコ目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属のイエネコがイメージされているとは限らない。例えば子供が「ネコって可愛いから好き」と言う時に、その言葉が指し示しているものは、実はレッサーパンダかもしれないのである。
ましてや異なった言語の間であればなおさらだ。日本語の「黄色」と英語の「yellow」は、カラーチャート上で同じ範囲を指し示してはいない。

学問はこうした不安定なものの上に成り立っている。介護も、学問足らしめようと思えばこの問題にぶつかる。
人間を対象としている以上、真理を究めることはできないだろう。しかし徒弟制度、そして個人の資質に多くを依っている現状からの脱却を図るには、言葉で伝えていかねばならない。

『風姿花伝』のように。

……あ、これは私がやらなければならないことなのだ、と思っているわけではないです。私が世阿弥になれるわけはありませんので。誰かがそういう努力をしていかないとね、というだけの話。

広告

思いやり

介護においてよく用いられる曖昧な言葉の一つに、「思いやり」がある。
「思いやりのあるケアをしなさい」「あなたは思いやりがない」などと言われる時、それが具体的に指し示す内容は、万人で共通したものになっているだろうか? あなたは、その言葉を発している相手が言わんとしていることを、正確に理解しているだろうか?

今日はこの「思いやり」について考えてみる。
言葉を定義することが目的なのではない。それを介護において活かし、ケアの質を高める技術とするためである。
努力して習得することが難しい、個々人の持つ天性の素質という領域に含まれるものを、努力することで誰しもが身につけられる技術にする。それが、私がこのブログで試みている「マイクロケア」である。

まずは世間での共通概念を確認するため、いつものように広辞苑第五版から引いてみよう。

おもい‐やり【思い遣り】
①思いやること。想像。源氏物語 蓬生「―のさびしければにや、此の宮をば不用のものに踏み過ぎて」
②気のつくこと。思慮。源氏物語 槿「いと―もなく人の心も見知らぬさまに」
③自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。「―のある人」

最も普通の用いられ方は③であろう。自分の身に照らして考えてみる、というところがポイントと言えそうだ。
以前にエントリ「優しさ」で、私は「優しさ」を「受容」「共感」「利他」に細分化した。そしてこの「共感」を、「自分を相手の状況に置き換えてみることで、相手の体験を己のものとして主観的に体験すること」とした。つまり、「思いやり」と「優しさ」は、どちらも「共感」を含む。異なるのは、そこから先である。
私は、「優しさ」となるのはやはり「共感」が「利他」的な行動に結びつく場合であると考える。逆に言えば、「思いやり」は相手の利益のために積極的に行動する場合にのみ用いられるのではないと。

では、「思いやり」の独自性とは何か。
それは「自分を殺す」こと、簡単に言えば我慢することではないかと私は考えている。

言葉にならない声を大声で発する方がいるとする。
もしも相手に対して何の配慮もいらない状況であれば、それに対する人間として最も自然な反応は「うるせえ! 黙れ!」と怒鳴ることであろう。
しかし我々人間は社会生活を営む生物である。それをそのまま実行して差し支えない状況など、実際にはほとんどない。そのため、怒鳴ることはせず、もっと柔らかい言い方を探すか、あるいは何も言わないかであろう。
単に周囲の目を気にしたために己を律したのみであれば、それは「思いやり」とは呼べない。しかし、「病気のようなものだから仕方がない」と考えるか、あるいはさらに一歩進んで、「あんな声を上げるくらいだから、あの人は心の中で、さぞ苦しい体験をしているに違いない。可哀想に」と考えた結果、「うるさくとも我慢しよう」と、黙っていることを選択する。こうなると「思いやり」となる。
(ちなみに、この例で「優しさ」とは、例えば傍に行って手を握る、といった行動を起こすことである。)

ケアにおいては、何か腹の立つ、あるいは悲しいことがあったとしても、まずは相手の身になって原因を考えることで、自分の中に余計なストレスを溜め込むことなく、適切な対処をするための第一歩になる。私はこのことを以って、介護における「思いやり」と定義したい。

「優しさ」とは、自ら進んで相手の身になって考え、相手の利益を図る行動を起こすこと。
「思いやり」とは、何かマイナスの感情が自分の中に芽生えそうになった時に、相手の身になって考え、自分の感情を統制すること。

ただ、我々が行う介護においては、「思いやった」だけでは意味がない。相手の方の「生理」「感情」「意思」を確認する「気づき」、相手の方にこれから起こる事態を先回りする「気配り」、相手の方の利益となることをする「優しさ」へと繋げていく必要がある。

今日は非常に当たり前のことを、回りくどく、もっともらしく述べたのに過ぎないと感じられるかもしれない。
しかし、それでいいのだ。技術にするというのはそういうことなのである。

見守りと付き添い

とある職員から尋ねられた。「歩行の『見守り』と『付き添い』って違うの?」と。
確かに私のケアプランでも、「見守り」と書いている場合と、「付き添い」と書いている場合がある。両者に違いはあるのか? というのがその職員の疑問だったようだ。

正直言って、考えたこともなかった。何となく使い分けていたとしか言いようがない。
これについての考察をここに書き留めておくことが、後の自分や、これを読んでくださっている方の役に立つとは思えないのだが、せっかく考えたので書いておこう。
こういう抽象的な言葉全てに技術的な意味を与えるのがマイクロケアだからだ。

まず、広辞苑(第五版)ではこうある。
(「見守り」は収載なし)

み‐まも・る【見守る】
① 見て番をする。事が起らないように注意して見る。「子の成長を―・る」
② じっと見つめる。熟視する。「衆人の―・る中での離れ業」「成行きを―・る」

つき‐そい【付添い】
つきそって世話をすること。また、その人。「親の―が必要」「―人」

つき‐そ・う【付き添う】
① ア 貴人のそばにつき従う。かしずく。
イ 病人・子供などのそばに付いていて、世話をする。「―・って行く」
② 付随する。付属する。狂、宝の笠「これに―・うた隠れ蓑、打出の小槌は方々の大名衆へ買ひ取らせられに」

まずは一般論として考えてみよう。
「見守り」は見ることが主であり、「付き添い」は傍にいることが主、と言えそうである。実際、私も、「見守り」は注意、心がけとして、「付き添い」は行動として使っている。

介護においては、「付き添い」は対象者の傍にいることが求められるが、後者は必ずしも近くにいるとは限らない。食事の際に、少し離れたところから観察する場合でも「見守り」である。

また、援助の内容の違いで考えてみると、「見守り」は身体介護であり、「付き添い」は行動支援であると言えよう。
仮に「トイレに付き添う」だと、一緒にトイレに行きはするが、そこで職員が何もしなくとも成立する(ように私には思える)。しかしそれでは意味がない。なので、排泄ケアについては「見守り」という言葉を使う。
一方、近所の店への買い物などは、歩行状態が悪くなければ、常に注視し、転倒に備えておく必要はない。しかし、お一人で階段などの危険な場所に行かれてしまったり、施設外で交通事故に会う危険などは考慮せねばならないので、職員は傍らにいる必要がある。これは「付き添い」だ。

さて、そこで冒頭の、歩行の「見守り」と「付き添い」である。
歩行については、離れたところから身体介護として見守っていても意味はない。ふらついたときに支えることもできないからだ。そのため傍らにいる必要があり、常に、転びそうになったときには支えられるように心身両面で備えている必要がある。こうしたときには、「歩行の見守り」とする。
しかし、そこまで歩行自体に問題がなければ、職員は傍で不測の事態に備えていれば良い。このときには、「付き添い」とする。

「見守り」と「付き添い」は、適切なリスク管理と自立支援の両面から、はっきりと区別しておく必要がありそうである。

先日のエントリ「慣れと役割、そしてサービスの質の低下」では、「利用者さんの声を真摯に受け止めて聞いてあげたい」一方で、「毎回毎回全てまともに取り合っていたら、こちらの神経がもたない」「利用者さんの希望をそのまま受け入れてあげるわけにはいかない」という介護職員のアンビバレントな(昔流行ったなあ、この言葉)感情について書いた。

良いサービスを行えない介護職員は、必ずしも心がないのではない。自らの役割を果たそうとし、かつ利用者さんの訴えに「慣れ」てしまうことによって、心が鈍麻するのである。

この過程では、環境も大きく影響する。上司や先輩職員が既に鈍麻してしまった者ばかりであれば、初心を保ち続け、成長するのは容易ではないだろう。しかし、適切な指導を受けたり、元々の適性に優れていれば、鈍麻を最小限に抑えて働き続けることもできる。

初心を忘れず、なおかつ知識を増やし、介護職員として成長していくためにはどうすればいいのか。
この「心」を精神論でなく技術論で語るのが、このエントリ、そしてマイクロケアの目的である。

まずは知ることである。慣れと役割の履き違えがサービスを低下させていくことを。
そして、以下のルールを実行する。

1. 利用者さんの意思に反して何かを行わない
利用者さんにしてもらいたいことがある時には、利用者さん自らがやろうという気持ちになっていただくことが望ましい。
「お風呂? 嫌だ。入らないよ」から、「そうだね、あんまり気が進まないけど入らないとね。入っちゃえば気持ちいいし」というように。
ここで究極の理想を述べれば、何らかの形で他者とコミュニケーションが取れる全ての方は、他者からの働きかけによって、自らやろうという意思を持っていただくことが可能なはずである。それができないのは、介護職員としてまだ未熟だからだ。

もちろん、これはあくまで理想であって、実際には、どんな方にも全く拒否されることなく誘導できる職員など一人もいない。それでも我々は理想を目指していくべきだし、拒否されることがあれば、ではどうしたらうまくいくのかを考え続けなければならない。
時には強引にやってもらわなければならないこともあるだろう。そこで、「拒否されたからって、やってもらわないわけにはいかないんだからしょうがない」と諦めるのではなく、「自分の言葉のかけ方はまだまだ未熟だ」と反省した上で、「では何と声をかけたら、自分から入ろうという気持ちになってもらえるだろうか」と、次につながるアイデアを必ず考える。

毎回拒否されてしまうたびに「俺はダメな介護職員だ……」と落ち込む必要はない。それでは仕事を続けていくことがストレスになってしまう。現在の自分の能力を素直に認めた上で、理想を目指す向上心を忘れなければ良いのである。

2. 利用者さんの願いは必ず叶える
これも理想を言えば、ということである。共同生活である以上ルールは必要だし、介護保険サービスであれば法令に反するわけにはいかない。それにそもそも「帰りたい」とサービス利用を拒否されて、そのままそれを叶えることはできない。
ただ、だからと言って端から諦めてしまうのはよろしくない。何らかの形で実現できる道を考えるべきだし、そのまま実現するか、あるいは代替手段さえ提示できないのは、これも自分が援助者として未熟であるためだと反省し、これも次に繋がる実現方法を考える。
何も、全て自分でやってあげなければならないということではない。上司、ケアマネ、相談員に話を持っていき、託してしまっても良いのだ。
とにかく、「それは無理です」と決めつけてしまわないこと。

3. 利用者さんを待たせない
「そんなことを言われても、マンツーマンで援助をしているのでなければ、100%待たせないのは無理だ」と思われるだろう。
その通りである。

肝心なのは、利用者さんに「無視されている」「放っておかれている」と感じさせないことである。具体的には、「待っていてください」と絶対に言わないことだ。

もし手が離せない時に「ちょっと、お兄さん」と呼ばれた場合は、以下のようにすればよい。
・ 3分以内に行けるのなら、「はい、すぐ伺います」と答え、現在やっていることをそのまま済ませる。ただ、最低でも立ち止まって、相手の顔を見て言うこと。歩きながら言うのは厳禁である。
・ 5分程度かかるのなら「5分お時間をください。すぐに戻ってきます」と答える。
・ それ以上かかるのなら、他の職員を行かせる。もしも自分でなければならない用事であれば、「できるだけ早く伺います」で良い。

結局待たせているわけだが、「待つ」という言葉を使わないところがポイントである。
たとえ相手が認知症の方で、すぐに忘れてしまわれるとしても同じだ。「待っていてください」と言われて不快に思わない人はいない。自分がレストランなどに行って、店員に声をかけた時のことを想像してみて欲しい。
待たせることは、利用者さんを無視する、あるいは放っておくことである。これが習慣化すると、サービスは確実に低下する。

4. 利用者さんの行為を禁止したり叱らない
認知症ケアでよく言われていることだ。
これらの言葉を職員が発する目的は、利用者さんを管理することである。事業所として、そして職員個人としての都合に基づく管理が望ましくないのは当然として、では純粋に利用者さん本人のためを思ってのことであれば良いのかと言うと、それも同じだ。言葉で禁止したり叱ってはならない。

例えば、安定した歩行ができないのに車いすから立って歩いてしまう方に、「立っちゃダメですよ」と言うのは、接遇上好ましくないだけでなく、効果もない。立ってはダメと言われて、立つことをやめる認知症の方がいるだろうか?
それよりは、「これ(車いす)を使った方が楽ですよ。どうぞ」と言った方が良い。もしも状況的に、座っていていただかなければならないとしたら、「今ご飯をお出ししますね」「お茶をお持ちしますね」など、自分がこれからすることを伝えた上で、さりげなく(強引はダメ)、座っていただけばいい。

利用者さんの体を椅子に座らせるという行為を行うのに、「立っちゃダメ」と言いながらであれば、それは利用者さんの行動を制限しているのに他ならない。しかし、「今お茶をお持ちしますね」と言いながらであれば、それはその後に続く「お茶を飲む」という活動の支援の一部にすることができる。
これは単に形式上だけの問題ではない。例え認知症の方で、何を言ってもすぐに忘れられるとしても、その時の感情はその後の行動に影響を及ぼす。

そもそも禁止したり叱ったりしてはならないというのは、その内容の正当性を問うているのではない。エントリ「慣れと役割、そしてサービスの質の低下」で書いたミルグラム実験が示しているように、こうした禁止・叱責行為は少しずつエスカレートしてしまうものだからである。
こうしたプロセスによって、人は誰でも虐待をしてしまう可能性があることを肝に銘じておく必要がある。

私の考える「心」とは、こういったところだ。現時点で思いつくのがこれ、ということなので、後々追加していくかもしれない。

優しさ

「優しさ」は介護職員にとって重要な資質である。
このことを頭から否定できる者は、相当にひねくれている。しかしいささか曖昧なので、「その『優しさ』とはどういう意味?」と尋ねたくなるのもまた無理からぬことだ。

一般に、「優しさ」は優越感の裏返しだとか、見返りを求める打算的な目論見だとか、また相手がそれを本当に喜んでいるのかを確実に知る手段がない以上、所詮は自己満足だなどと言われることもある。
また、「優しさ」と「甘さ」を履き違えるな、ということもよく言われる。この「甘さ」は他者に対してのこともあれば、自己に対してのこともある。
介護の仕事で言えば、例えば医師からカロリーを制限するよう指導されている方が、好きなものを食べたいと訴えられたとする。介護職員がその方に食べ物を用意してあげることは、一概に優しいとは言えない。本当にその方にとって何が利益となるのか、それを考えずに言われるがままにしてしまうのは、甘いだけで優しいとは言えまい。
また、介護職員が説明して理解を求めるという手順を回避したのであれば、自分に甘いとも言える。

もうひとつ、「優しさ」という仮面を被ることがあるものとして私が挙げたいのは、「小心」である。
気が小さいあまり、些細なトラブルも恐れた結果、己を押し殺してしまう者がいる。これも、傍から見ている者に優しさと勘違いされることがある。

まあ、こういったことはいずれも本当の「優しさ」とは呼べない。「優しさ」という言葉に含有される事象全てを説明することができるわけではないからだ。一面を切り取って分析しているに過ぎない。
結局のところ、「優しさ」とは何なのか。
これを、このブログ最大のテーマの1つである(その割にあまり書いていないが……)マイクロケアの視点から考えてみよう。

「優しさ」とは、受容と共感を経た後に相手の利益を図ることである。
「受容」「共感」「利他」が揃わなければならないのである。詳しく説明しよう。

1.受容
多少なりともケースワークについて学んだことのある方には常識だろうが、これは相手を全面的に肯定せよということではない。言わば、これから私は今のあなたの置かれた状況や感情を主観的に体験しようとしますよ、という宣言である。
これは、あらたまった面接場面では長い時間を要することもあるが、日常の場面では一瞬で終わることもある。つまり、「お願いがあるんだけど」などと声をかけられた時の、表情、声色のちょっとした変化だけであったりする。
よほど気心の知れた仲でない限り、柔和な態度が基本となろう。

例えば家族間や師弟関係などにおいては、厳しい態度の奥に潜む真意こそが優しさとみなされることもある。しかしその場合、受容は隠れているだけである。こうした関係は、維持されていること自体が受容そのものなのだから。
これが認められない関係においては、柔和でない態度は決して優しさを導き得ない。「それは優しさだよ」などというのは口実でしかない。厳しい態度は拒絶に他ならないのである。

2.共感
相手の感情を共有すること。
自分を相手の状況に置き換えてみることで、相手の体験を己のものとして主観的に体験することである。
こう書くと単純だが、実のところそれほど容易ではない。想像力には個人差がある。意識せずともごく自然に行える者もいれば、努力してもできない者もいる。また、そうして主観的に追体験した感情が、実際に相手のものとどの程度一致しているかという問題もある。「それはさぞ頭に来ただろう」と思っても、実際には相手は何とも思っていなかったりするものだ。結局のところ、人は自分を基準にするしかないのである。「自分だったらどうだろうか」と。

そこで、さらに2つの視点を加える。1つは相手の言葉。もう1つは、それまでに得ている情報を元に、「この人の個性を鑑みるに、どう感じていると考えられるか」という推測。これらを突き合わせて、最も強く感じられるものに賭ければよい。
結局、「優しさ」は「正しさ」と必ずしもイコールではない。イコールでなければならないわけでもないのだ。

3.利他
相手の利益を第一に考えること。
ここで利益というのは、必ずしも相手の希望に沿うとは限らない。先の例で言えば、食べ物を出してあげればいいというわけではないのだから。
しかし、それは重視されるべきではある。カロリー制限の必要があるからダメ、で終わりではなく、「週に1回でも医師は認めてくれないだろうか」「運動量を増やしたらどうだろうか」「カロリー0の飴などはどうだろうか」など、妥協策を考える。

「優しさ」を技術として体現する方法をまとめる。
まずは柔和な態度を取ること。第三者に客観的に評価してもらったり、鏡の前で練習しておくのも有効であろう。
次いで、「自分だったらどう感じるか」「相手は何と言っているか」「この人ならどう感じていると考えられるか」を確認する。
そして、何らかの形で相手に利益をもたらす。

どうだろうか。
これで、多少は「優しさ」もケアの技術にできていると言えないだろうか。