名前の呪縛

ばんばひろふみの「Sachiko」という曲がある。
1979年に発表された曲とのことで、さすがの私もタイムリーに聴いた記憶はない。数年前に車のラジオからたまたま流れてきた折、その歌詞に考えさせられるところがあったので記憶しているのだ。
歌詞の一部を引用する。

幸せを数えたら 片手にさえ余る
不幸せ数えたら 両手でも足りない
・・・・・
幸せを話したら 5分あれば足りる
不幸せ話したら 一晩でも足りない
・・・・・
Sachikoという名は皮肉だと
自分に宛てた 手紙燃やして

「皮肉だ」と言っている以上、「Sachiko」は漢字で書くと「幸子」なのだろう。「幸せな子」という名前なのに不幸せなのは皮肉だね、というわけだ。
しかし、これは単なる偶然、運命のいたずらなのだろうか。

親は子の名前を付ける際、自分たちの願いを込めることが多いように思う。それは「幸せな子になって欲しいから、幸子にしよう」というような単純なものばかりではないかもしれない。意味ではなく文字そのものにこそ意味が込められる場合もあるだろう。例えば家族のつながりを重んじるあまりに、親の名前から一字取る、とか。また、姓名判断というものの影響も無視することはできない。
しかしいずれにしろ、名前なんて単なる記号に過ぎないのだから「太郎」でいい、と考える親は今ではそれほど多くあるまい。そこには何らかの願いが込められる。

その願いは、親が自分が得られなかったと感じているものが多いのではないだろうか。得ていれば、ことさら意識に上ってくることはないだろう。
しかし遺伝と環境の影響で、子は親に似る。よって親の願いは叶えられない。
かくして「幸子」という女の子は不幸になってしまうわけだ。

このところ、子供に個性的な名前を付ける親が増え、マスコミでもしばしば採り上げられる。例は挙げずとも「ああいうもののことだよね」と想像していただけるだろう。
なぜ親はそういう変わった名前を付けたがるのか。

これは何も今に始まったことではないし、日本だけに見られる現象でもない。ハリウッドスターなど子供に変わった名前を付けることが多いような印象があるし、去年アメリカでは「Apple」「Mac」「Siri」などの名前が増えた、という報道もあった(参考)。

私が考え付く理由を挙げていくと、

・ 親が、自分は平凡でつまらない人生を送っていると感じており(意識に上っているか否かを問わず)、子供にはそうなって欲しくないと願う。「平凡ではない、ある意味特別な存在には、特別な名前が相応しい」と短絡的に考える
・ 親が、とにかく目立ちたい、注目されたいと思っている。他人から認められたい、淋しいという気持ちの裏返し(奇抜なファッションで街を歩くことなどと似ている)
・ 想像力の欠如。子供の成長や、変わった名前のもたらす不利益に思い至らない
・ セレブへの羨望、同一視
・ むしろ変わった名前の方が多数になっている現状では、その方が却って目立たず、子供が辛い思いをすることもないだろうと考える

というところか。

私は、奇妙な名前を付けること自体に口を出すつもりはない。そういう名前を付ける親を否定するわけでもない。
だが、最近の子供の名前を見ていると、その背景には奥の深い社会病理が潜んでいるように思えてならないのだった……

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中