言葉で伝えること

すべからく学問というものは、現象を正確に記述することを目指す。
記述とは、数式や図式によって行える自然科学の一部を除いて、言葉にすることである。

しかし言葉は、そもそも現象を記述するのにさほど有効な手段ではない。言葉はあくまで記号であり、シニフィアン(文字や音声)とシニフィエ(意味内容)、そしてレフェラン(それらが指し示しているそのもの)との関係は万人に共通しているわけではない。
言語が決定しているのはシニフィアンの表記と発声だけである。シニフィエは辞書や法令などにより統一が図られはしても、それが、その言語を使う者の間で統一されることにはならない。レフェランも同様である。

「ネコ」という文字と発音は日本人なら誰でも知っているだろう。しかし、ネコという言葉を用いる時に、必ずネコ目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属のイエネコがイメージされているとは限らない。例えば子供が「ネコって可愛いから好き」と言う時に、その言葉が指し示しているものは、実はレッサーパンダかもしれないのである。
ましてや異なった言語の間であればなおさらだ。日本語の「黄色」と英語の「yellow」は、カラーチャート上で同じ範囲を指し示してはいない。

学問はこうした不安定なものの上に成り立っている。介護も、学問足らしめようと思えばこの問題にぶつかる。
人間を対象としている以上、真理を究めることはできないだろう。しかし徒弟制度、そして個人の資質に多くを依っている現状からの脱却を図るには、言葉で伝えていかねばならない。

『風姿花伝』のように。

……あ、これは私がやらなければならないことなのだ、と思っているわけではないです。私が世阿弥になれるわけはありませんので。誰かがそういう努力をしていかないとね、というだけの話。

介護事業所のウェブサイト

今やウェブサイト(我が国ではホームページと呼ばれることが多い)を持っておくことは、全ての法人が当然に行うべきことと言えよう。
名刺に例えられている文を読んだ覚えがあるが、大いに頷けるというものだ。

介護事業所の場合、ウェブサイトは誰を対象に作るべきなのか。

介護事業所では、法人間の取引は業務の一部を委託したり、物品を購入するなど、あくまで顧客としての立場である。ごく限られた例外を除けば、法人にサービスを提供することはない。
対象は利用者さん(ご家族さん)、そしてケアマネさん、それに地域の方々である。

利用者さんは、高齢ということもあり、直接の閲覧者とは想定しにくい。しかしご家族さんがサイトを見て連絡をくださることはままあり、それは今後もっと増えていくだろう。
現在のところ、とりわけ介護保険施設は、市場のニーズが供給をはるかに上回っているため、わざわざ宣伝しなくともお客さんはいくらでも来る。しかし居宅サービス事業所や我々のような有料老人ホームでは充分に役立つ。

ケアマネさんに知ってもらうということも重要だ。ケアマネさんの紹介により、入居を申し込みに来られる方は多い。
さらには、地域の方々に知ってもらう役に立つかもしれない。
あと、忘れてはいけないのが求職者である。応募する前に、法人や事業所について情報収集するのは今やあたりまえといえよう。

これらのことを踏まえ、見せたい対象に合わせた内容を考える必要がある。現在の多くの介護事業所のウェブサイトは、閲覧者が欲しい情報よりも事業者が見せたい内容ばかりだ。
極端な話、介護事業所のサイトで立派な理念を掲げていても、そんなものは誰も読みたくないのである。少なくとも私は読んだことなどない。
それにスタッフが利用者さんの活動を支援しながらにっこり微笑んでいるイメージショットも見飽きた。誰が、それを事業所の日常風景だと思うというのか。

閲覧者が知りたいのは、まずは問い合わせ先と担当。これは単に名前を書いておくだけではなく、人柄が垣間見えるような工夫が必要だ。写真に簡単な自己紹介くらいは添えておこう。
それに料金。制度に基づく複雑な料金体系を詳しく記すだけでは部外者には理解できないので、実際にいくらぐらいかかるのかをはっきり書く。
そして実際のサービス。法令ではどのように定義されているかなどどうでもいい。

私も介護施設のサイトを作ったことがあるので、閲覧者に優しくないサイトになってしまう理由も分かる。正確に書こうと思えば、法令に準じた言葉を使うしかないのだ。分かりやすい言葉で書こうとすると、誤解を招きかねない不正確なものになってしまう。

介護事業所のサイト程度なら、外注せずともスタッフの手作りで良いと思う。が、90年代の個人サイトによくあった絶望的なセンスはさすがに拙いので、それができるスタッフを抱えた事業所はほとんどないだろう。
また、当たり前だがSEO対策、つまり検索エンジンで上位に来るよう金をかけるのは無駄だ。地道に運営していれば、自然に上位にあがってくる。

実際のサービス、そしてスタッフの人柄を見るのに、ブログを設置するのは有効だ。と言うよりも、今やスタッフブログのないサイトなど片手落ちである。
結局、閲覧者が知りたいのは建物やサービスよりも、「人」なのである。働いている人の見えない介護事業所のサイトに魅力はない。

実のところ、私もうちの施設のブログを更新しているのだが、前の担当者の文体を意識した、当たり障りのない内容しか書いていない。法人内の別事業ではもっとユニークなブログをやっているので、うちもチャレンジしてもいいかなと思うが、まあ私は一般感覚が欠如しているので多分やらかすだろう。

それに、そんな時間もないけどね。

介護の職場における頭脳労働

介護の業界では、頭脳労働への理解が非常に低い。
いや、むしろ絶無である。

頭脳労働というのは、言うまでもなく肉体労働の対義語ではあるが、例えばPCを使った単純な入力作業などは、ここでは含まない。「考えること」が中心となる仕事のことである。

一番顕著な例が、「PCの前に座っていると暇そうに見える」ことだろう。
私は直接言われたことはないが、そう思われていても不思議はないと思うし、知人が周囲の職員からそういう目で見られているという話は聞いたことがある。

また、介護事業所は利用者本位であらねばならない。この「利用者本位」とは、介護の現場こそ最も大事であるということだと、暗黙のうちにみなされている。
その結果、現場に欠員が出れば、その他のことは全て後回しにされて当然だというわけだ。たとえ事務所に誰もおらず、電話に出なくても、来客に気が付かなくても、入居者さんの用事に応えられなくても、それは仕方がないと。
ましてや頭脳労働など、たぶん多くの職員に、存在していることすら認知されていないだろう。

この結果、頭脳労働を行う者は、自宅に仕事を持ち帰り、一日の多くを仕事に費やすことになる。仕事から解放されることなど片時もない。

今、私は指定更新にあたって保険者から不備が指摘された書類の作成と、運営推進会議の準備を抱えているのだが、私が自分で立てていたスケジュールは、現場職員の急な欠勤を補ったために全て消し飛んだ。その分の時間はどこからも返って来ない。現場に入っている以外の自分の時間を充てるしかないのだ。
そしてプライベートが壊れていく。健康も。

ストレスが原因とされる疾患は悪化する一方だし、夜勤の前の日は特に眠れなくなってしまった。首が痛み、それはやがて頭痛になる。

時間外労働が多いということは全く問題ではない。これまでの職場ではもっと働いていて、日付が変わることさえ珍しくなかった。そのことを辛く思ったことはない。
ストレスなのは先の計画が全く立てられないということだ。いつ現場に入ることになるか予測ができないのだから。
その結果、自分の仕事に優先順位をつけることもできない。現場に入り続けているうちに締め切りが来てしまうことになる。

このブログも、ここしばらく自分で納得のいくエントリが書けていないなあ。

3K+感情労働

介護の仕事は3Kだとよく言われる。

3Kとは、以前から「きつい」「汚い」「危険」として、肉体労働の仕事を指す言葉として使われてきた。
介護においても、これをそのまま当てはめている場合もあるが、「危険」の代わりに「給料が安い」を加えている人もいたりする。

まず「きつい」について。
介護の仕事は、本来それほどの重労働ではない。確かに職場によっては、肉体的に大きな負担がかかっているところもあるだろうが、決して大多数ではない。
問題はむしろ、休憩がろくに取れないこと、時間外労働が多いこと、急な勤務予定変更が多いことなどにある。これらのために、肉体的・精神的な負担が非常に大きくなっている職場も少なくないのだが、これらの原因は、介護という仕事の持つ本質的なものではない。単に人手不足の職場が多い、ということを示しているに過ぎない。

次いで「汚い」。
排泄物への嫌悪感を持っている人にとっては、汚い以外の何ものでもないことは間違いない。しかしそうでなければ、それほど汚いとは言えないだろう。

「危険」。
B型・C型肝炎ウイルスなどのキャリアである方と接する機会が多いのは確かだ。もっとも、介護という行為では、感染するリスクはそれほど高くない。
むしろ心の健康を損ねる危険性の方に気を付けるべきであろう。

「給料が安い」。
正規職員として働き、自らの生活を支える必要がある人にとっては間違いなく当てはまる。しかしそうでない人、例えばパートタイマーとして働きたい者にとっては、むしろ条件は他の仕事よりも良いくらいである。
実際、世の中にこれほど正規と非正規の差がない職業は他にあるだろうかと思う。

また、最近よく言われる「感情労働」であることも確かだ。
つまり仕事において、ポジティヴな感情を創出し、ネガティヴな感情を抑制せねばならない。笑顔や穏やかな態度で接し、イライラしたり腹が立ってもそれを自分の内側に抑え込むのだ。
この感情労働という側面は、真面目に仕事に向き合っている者ほど強くなる。今の介護の現場では、残念ながら利用者さんの前で苛立ちや怒りを露わにする職員もおり、彼らにとってはさほどの感情労働とはなっていないだろう。
しかも、感情を巧みに抑制したからと言って、それにより報酬が得られるわけではない。極端な話、利用者さんに当たり散らしながら仕事をしていても、常に微笑みを絶やさずに優しい態度で接していても給与は一緒である。

さて、感情をコントロールするには2通りのやり方がある。1つは、仕事なのだと割り切って演技に徹すること。もう1つは、自分の内面の感情そのものを変えようとすることである。つまり、認知症の方に笑顔を向ける際に、仮面を被るか、それとも相手を愛すべき存在と思い込むか。
実のところ、感じるストレスは後者の方が大きいのだ。前者は、自分が仮面を被っているのと同様、相手に対しても、認知症という病気に侵されているのだから、怒鳴られても仕方ないと許容することができる。しかし後者は、怒鳴られた時には、自らの内面に生じる感情を、不快から快へと変えなければならない。これは容易いことではない。
しかも前者も、その時々のストレスはそれほどなくとも、「仮面を被っている」ことは不誠実であると、心のどこかで罪悪感を感じている。それは蓄積して、仕事上だけではなく生活の全てにおいて感情を鈍らせていくことになるのである。

ということで今日のまとめ。
・ 介護の仕事が3Kなのは、仕事の本質ではなく、労働環境の悪さを物語っているのみ。
・ 本来は感情労働だが、その辛さは真面目で優秀な職員ほど強く感じている。

なんかこういう内容のことを書いてしまうあたり、私も少し気分が落ちているのかもな……

椅子による拘束

エントリ「横着の正当化」で書いた、食堂で車椅子から普通の椅子に座り替えていただくと立ち上がってしまうことがあるという理由から、職員によって車椅子に座ったままにされがちな方について。

一般的に車椅子の座面は前が高く、後ろが低い。これはおそらく移動中にずり落ちたりしないようにという安全面を考慮してのことだろう。しかしこのために、立ち上がりはしにくくなってしまう。
立ち上がることを防ぐため、食堂で車椅子から普通の椅子に座り替えてもらわないのは、厚生労働省の『身体拘束ゼロへの手引き』で挙げられている身体拘束の例⑦「立ち上がる能力のある人の立ち上がりを妨げるようないすを使用する」に該当する。見た目は何一つ拘束していなくとも、その目的としては立派な拘束である。

私が現場に入った時には、その方には必ず食堂で普通の椅子に座り替えてもらっているが、その理由は3つある。
1. 立ち上がろうとすることも、その方が今何を考えているかを知る一助になるから
2. 立ち上がりを妨げることは身体拘束に該当するから
3. その方の担当が、座り替えてもらうようにと指示しているから
である。

ところで今日、その方が塗り絵に集中して取り組まれている時に、私はその間に別の入居者さんのオムツ交換を済ませてしまおうと考えた。そこで、万一のためにと思い、その方の椅子の後ろにもう一つ椅子を置いて、もしその方が立ち上がろうとしても、椅子が後方に動かせないようにした。うちの施設は、1フロアにつき早番と遅番が一人ずつなので、フロアに1人しか職員がいなくなってしまう時間帯があるのだ。
これを見た看護師から、それは良くないと指摘された。その場を離れるならば、他のスタッフに見守りを依頼すればいいだけの話ではないかと。

その言い分はもちろん分かる。
それに、拘束を避けようとして車椅子から普通の椅子に座り替えてもらっていても、結局立ち上がれないようにと拘束してしまうのでは意味がない。
それに見た目も悪い。

しかし、私は実際に立ち上がろうとされている時に、立ち上がれないようにしたわけではない。その方がせっかく活動に集中して取り組まれているのに、それを中断させて車椅子に移乗していただき、他スタッフのところへお連れするのは忍びない。職員の都合で入居者さんを動かすことに他ならない。
また各フロアに職員が1人ずつしかいない状態では、食堂から離れる際にいちいち隣のフロアから、持ち場を離れてこちらに来てもらうというのも実際には難しい。一日に一度や二度では済まないからだ。

だから私は、看護師の指摘は第三者的な視点からは正しいと思うけれども、少しも反省はしていないのだった。

よく施設では、目の離せない方がスタッフステーションに連れて来られているところを目にする。また職員がナースコールで呼ばれるなどして訪室する際に、目の離せない方を目的の部屋の前までお連れし、そこで待っていてもらうことも。
身体の動きを物理的に制限するよりは、遥かにましな対応なのだろうと思う。だがそうやって職員の都合のみで動かすのでは、本末転倒になる場合もあるように感じている。