思いやり

介護においてよく用いられる曖昧な言葉の一つに、「思いやり」がある。
「思いやりのあるケアをしなさい」「あなたは思いやりがない」などと言われる時、それが具体的に指し示す内容は、万人で共通したものになっているだろうか? あなたは、その言葉を発している相手が言わんとしていることを、正確に理解しているだろうか?

今日はこの「思いやり」について考えてみる。
言葉を定義することが目的なのではない。それを介護において活かし、ケアの質を高める技術とするためである。
努力して習得することが難しい、個々人の持つ天性の素質という領域に含まれるものを、努力することで誰しもが身につけられる技術にする。それが、私がこのブログで試みている「マイクロケア」である。

まずは世間での共通概念を確認するため、いつものように広辞苑第五版から引いてみよう。

おもい‐やり【思い遣り】
①思いやること。想像。源氏物語 蓬生「―のさびしければにや、此の宮をば不用のものに踏み過ぎて」
②気のつくこと。思慮。源氏物語 槿「いと―もなく人の心も見知らぬさまに」
③自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。「―のある人」

最も普通の用いられ方は③であろう。自分の身に照らして考えてみる、というところがポイントと言えそうだ。
以前にエントリ「優しさ」で、私は「優しさ」を「受容」「共感」「利他」に細分化した。そしてこの「共感」を、「自分を相手の状況に置き換えてみることで、相手の体験を己のものとして主観的に体験すること」とした。つまり、「思いやり」と「優しさ」は、どちらも「共感」を含む。異なるのは、そこから先である。
私は、「優しさ」となるのはやはり「共感」が「利他」的な行動に結びつく場合であると考える。逆に言えば、「思いやり」は相手の利益のために積極的に行動する場合にのみ用いられるのではないと。

では、「思いやり」の独自性とは何か。
それは「自分を殺す」こと、簡単に言えば我慢することではないかと私は考えている。

言葉にならない声を大声で発する方がいるとする。
もしも相手に対して何の配慮もいらない状況であれば、それに対する人間として最も自然な反応は「うるせえ! 黙れ!」と怒鳴ることであろう。
しかし我々人間は社会生活を営む生物である。それをそのまま実行して差し支えない状況など、実際にはほとんどない。そのため、怒鳴ることはせず、もっと柔らかい言い方を探すか、あるいは何も言わないかであろう。
単に周囲の目を気にしたために己を律したのみであれば、それは「思いやり」とは呼べない。しかし、「病気のようなものだから仕方がない」と考えるか、あるいはさらに一歩進んで、「あんな声を上げるくらいだから、あの人は心の中で、さぞ苦しい体験をしているに違いない。可哀想に」と考えた結果、「うるさくとも我慢しよう」と、黙っていることを選択する。こうなると「思いやり」となる。
(ちなみに、この例で「優しさ」とは、例えば傍に行って手を握る、といった行動を起こすことである。)

ケアにおいては、何か腹の立つ、あるいは悲しいことがあったとしても、まずは相手の身になって原因を考えることで、自分の中に余計なストレスを溜め込むことなく、適切な対処をするための第一歩になる。私はこのことを以って、介護における「思いやり」と定義したい。

「優しさ」とは、自ら進んで相手の身になって考え、相手の利益を図る行動を起こすこと。
「思いやり」とは、何かマイナスの感情が自分の中に芽生えそうになった時に、相手の身になって考え、自分の感情を統制すること。

ただ、我々が行う介護においては、「思いやった」だけでは意味がない。相手の方の「生理」「感情」「意思」を確認する「気づき」、相手の方にこれから起こる事態を先回りする「気配り」、相手の方の利益となることをする「優しさ」へと繋げていく必要がある。

今日は非常に当たり前のことを、回りくどく、もっともらしく述べたのに過ぎないと感じられるかもしれない。
しかし、それでいいのだ。技術にするというのはそういうことなのである。

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