職業としての介護と、家族としての介護

先日書評を書いた『認知症「不可解な行動」には理由がある』だが、Amazonのレビューを見てみたところ、家族介護者と思われる方々にはあまり評判が良くなかった。

確かに、認知症を理解し、「正しい」対応をというのは、我々職業人には当然のことであるが、ご家族さんにそれを求めるのは酷な場合も少なくない。
「こういう行動には、こういう原因があるので、こういう対応をするのが望ましい」と正論を突き付けられるよりは、「認知症というものは脳の疾患なので、何を言ったりしたりしても、それは仕方がない。そういうものだと思って諦めるしかない」と言われた方がまだましなのかもしれない。まして、「こんな対応は逆効果」などと言われれば、自分の苦労が否定されたような気にもなるだろう。

私も、仕事として行うには理想をどこまでも追求すべきだと思っているが、もしも自分の身内が、わけのわからないことを言って歩き回ったり暴れたりしたら、病気なのだからと献身的な態度を取り続けるのは無理かもしれない。いや、それどころか排泄ケアさえまともにできる自信がない。

もちろん、献身的なご家族さんも多く、それは非常に素晴らしいことである。しかしそれを全ての方に求めるわけにはいかないし、また認知症介護を続けることによって介護者の方が心身の健康を損ねるようなことになれば、家庭の中での、そして社会全体での幸福の総量は増えないどころか、逆に不幸が増えてしまうことになる。仮に認知症の方が幸せに過ごせたとしても、それが身近な方の不幸の上に成り立っているのであれば、それは果たして望ましいことなのだろうか。
介護保険制度は、それまでは家族が担ってきた介護を、社会全体で支えるのが目的ではなかったか。そしてその成立の背景には、家族というものの多様化(崩壊、とは言いたくない)があったはずだ。

とは言うものの、では周辺症状の出ている方は病院や施設で、というのはもはや時代に逆行している。ご本人さんのことを考えれば、それは望ましいこととは言えないし、認知症の方が増えていくことが予測されている今、現実的でもない。

エントリ「認知症ケアの現在」で書いたように、資源が有効活用されればいいが、認知症は医療やケアの進歩のスピードをはるかに上回って増え続けている。

先ほど幸福の総量と書いたが、介護をすることで、介護者も被介護者も幸せになる。そんな社会は実現可能だろうか。
介護休暇中の保障が収入の全額であること(ただし金額に上限はあってもいいだろう)、介護保険サービスの利用量に応じて、家族介護者にも報酬が支払われること(確かドイツでは導入されているんじゃなかったかな?)などは、それを探るヒントになるのではないだろうか。
もちろん、お金が全てというわけではない。しかし、少なくとも生活への心配がなければ、介護を、身内の方とのんびり過ごす時間と捉え、気持ちのゆとりができるのではないかと思うのだ。

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