排泄ケアの宿命

「自尊心に配慮し、排泄介助の際には○○します」という文章をケアプランに書くことがある。

日常的に、排泄という行為、また陰部や排泄物を他人に見られることは、全ての人が抵抗を感じることである。
それを可能にする方法は2つしかない。相手を卑しめるか、己を卑しめるかである。

古の王族・貴族は、身の回りのことを全て召使に手伝わせており、当然裸身や排泄行為を彼らの目の前に晒していたと言われる。それが事実であるかどうか、ざっとネットで検索しただけでは根拠となる文献などを見つけられなかった。
代わりと言っては何だが、会田雄次『アーロン収容所』という本のことが複数のページで言及されていた。著者がイギリスの捕虜となった時の話で、捕虜となった彼が清掃のために入って行った部屋に白人女性が全裸でいたのだが、彼が入って行っても顔色一つ変えなかったという。白人にとって、有色人種は人間とは考えられていなかったのだ。
相手を自分と同じ人間とみなしていなければ、羞恥心など感じる理由はない。我々が犬や猫の前で裸になっても何も感じないのと同じように。
つまり相手を自分よりも卑しめていたわけだ。

まあ、ここで人種差別について語るつもりはない。それは人類の歴史の中で事実として存在し、そして今なお尾を引いているが、過去に囚われていても仕方がない。

また羞恥心の解消は、逆に自分を相手よりも卑しい存在とみなすことでも成立する。自らを「下の世話を他人にしてもらわなければならない情けない存在」とみなすわけだ。
これは自信を失わせ、抑うつ状態にさせることもあると思われる。

いずれにしろ、身体介護、特に排泄ケアにおいては、被介助者と介助者が、対等な関係であり続けるのは容易ではない。どうしていけばいいのか、私にはその答えはいまだ見えていない。

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