血液型という迷信

この仕事を始めてから、血液型を気にする人が多いのに驚いた。

小学生の頃はともかく、高校以降は、血液型など気にする友人は一人もいなかった。その後就職した業界でもそうだったので、世間で血液型がどうこうという話題がこれほど好まれているとは思わなかった。マスコミがふざけて煽っているだけだと思っていたのだ。

言うまでもないが、血液型と人格との関係を肯定する科学的な研究はなく、否定する研究は少なくない。それどころか、関連があるという発想そのものが滑稽ですらある。実際、血液型と人格とを結びつけて考えているのは世界的に日本人ぐらいのものだと言われる。
一般的に、占いの類は男性よりも女性の方が好む話題なので、女性中心の職場であることも、介護の業界で血液型の話題が多い理由の一つではあるだろう。

血液型についての迷信は、役に立つのは話題に困った時に話のネタになることぐらいで、つまらない先入観を与える害の方がはるかに大きい。
また、ただの占いに目くじらを立てるのも大人げないかもしれないが、介護職員だけならともかく、看護師まで話に加わっているのを見ると、この国の医学教育とは何なのかと思う。
それに医療のみならず、介護も科学的であらねばならない。

ここで言う「科学的」とは、分野のことを指しているのではない。エントリ「ケアマネジメントのプロセス」で書いているような、思考過程のことである。血液型による人格分析を頭から信じ込んでいるような人が、適切な根拠に拠って支援の計画を立てられるとは思えない。

私も無用な他人との軋轢は避けたいので、こういうことを実生活で他人に話すようなことはしない。それが明らかに差別的な決め付けとして用いられている場合には別だが。

話は変わるが。
私がうちの施設に入職した時に、ABO式とRh式の血液型を尋ねられて驚いた覚えがある。同時に血液の提供の可否も聞かれたので、万が一、職員や入居者さんに急遽輸血の必要が生じた時のためにというつもりなのかな、と思った。
それらは名簿にも記載されていた。私は過去の海外渡航歴のために献血が禁じられていた(現在では可能となったが)ので、血液提供が一人だけ「非」と記されることとなったが、今ではもうそんな名簿は作っていない。
それにしても介護施設に勤めていて、緊急的に輸血が必要となり、かつそれが可能な設備が整っている状況というのが全く想像できないのだが……そんなケースはあり得るだろうか?

あと、入居の際に提出を求める医師の診断書にも、血液型という欄があるが、これも必要があるのか、よく分からない。役に立つことがあるのだろうか。
実際に輸血が必要となったら、その情報はそのまま信頼されるものなのだろうか。改めて検査されることなしに。

日本人はどうもABO式、そしてRh式の血液型を気にし過ぎなように思える。

【書評】ケンジ・ステファン・スズキ 『消費税25%で世界一幸せな国 デンマークの暮らし』

高福祉高負担を実現させている国として、以前よりデンマークには興味があった。そのためiTunes Storeで「人気作品」として並んでいるこの本を見つけた時に、即購入した。

著者は若くして日本からデンマークに移住、家庭を持ち、会社を起こしたという。あくまで一市民としての視点から、デンマークを紹介しており、実に読みやすく興味深い。

デンマークの人口は兵庫県と同じくらいだという。まずそこに驚いた。意外に小さな国なのだな、と。
全国民がかかりつけ医を持っており、医療費は全て無料。ただし医師が必要と判断しないと、いくら希望しても治療は受けられず、風邪くらいでは薬も出してくれないという。
これは医療費抑制には効果的だろう。日本では、特に高齢者医療で必要のない鎮痛剤、緩下剤などがどれだけ出されていることか!

それにしても、デンマークの社会の実情は、驚きの連続だった。まさにカルチャーショックである。
学校には入学試験がないという。高校や大学さえも。そのため偏差値というものがない。どんな仕事をするにも資格が必要で、いわゆる会社員(こういう概念はデンマークにはないらしいが)にも資格が要る。学校は資格を得るための場所なのである。
給与は、職業別の労働組合が決めるので、どの企業に勤めても職種が同じなら給与は同じとのことだ。
ということは、はっきり書かれてはいなかったが、昇給もないのではないか。

日本では年功序列制で、長く勤めてさえいればそれなりに昇進し給料も上がるが、デンマークでは給料を上げるためには学校で資格を得て転職するしかない。そのための門戸は開かれており、学校に行くのは何歳になっても可能で、全て無料である。
年功序列制は、働いている者からすれば有難いが、本来給与はその者の働きに応じて与えられるものであり、能力が低い者に高給を与えるのは企業にとっては無駄というものであろう。私は大学時代に某有名デパートの物流センターでバイトしていたことがあるが、長く勤めているだけの高給取りを何人も見た。

さて、デンマークの幸福度が世界一とは言っても、問題がないわけではない。
まずは離婚率が高いことだ。女性の就業率が76%と高く、一人でも暮らしていけることが、離婚を容易にさせている。子供の教育費も無料であるし。

次に自殺。人口あたりの自殺者数は日本の半分程度だが 、それでもヨーロッパでは少ないとは言えないようだ。これは離婚や配偶者との死別で、孤独になり自殺する男性が多いことが最大の理由らしい。
とにかく孤独な人が少なくないようだ。何しろ、子供は皆18歳で自立する。成人した子供とその親が同居しているという世帯はほとんどない。
つまり、高齢者はほとんど夫婦のみか独居なのである。

デンマークの制度について言及している本は何冊か読んだが、こうした実情には一切触れられていなかった。そのため、実に新鮮で面白かった。

例えば社会学者の橘木俊詔などは、日本はデンマーク型の福祉を目指すべきというが、いくらデンマークが優れた制度を持っているとはいえ、これだけ違った社会を持つ国のものを日本に持って来てうまく行くのだろうか。
デンマークはクリスチャンの国であり、倫理や哲学が初等教育から大学教育まで必須科目となっている。これが、高福祉高負担を国民に許容させている源であると著者は言う。なるほど、と思った。

デンマークのような共生の精神は、日本人にはない。これはキリスト教の言う博愛精神が、日本では根付いていないためではないか。
仏教で言うところの慈悲は、あくまでも仏の役割であって、人々は救済される対象でしかない。いざ困った事態に遭遇してから神仏にすがるのが日本人である。日頃から助け合って、共に生きていくことを、身銭を切って行える者はいない。

現在の暮らしはともかくとして、将来への安心という点では、日本はデンマークに比ぶべくもない。日本では、将来に不安を抱かずに済むのは一部の大金持ちか、想像力の欠如した人間だけである。
本当にそれで良いのか、それとも国民全てが安心して暮らしていくためのシステムを作っていくのか。それを改めて考えた方が良い時期が来ている。

(評価:★★★☆☆)


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地区のお茶会

地区の公民館で行われている、高齢者の方々のお茶会にお邪魔してきた。

今年度の初め、運営推進会議に地域住民代表として出席していただいている、福祉推進委員の方より依頼を受けた。その時には、ギターを持ってきて、皆で一緒に歌って欲しいとのことだった。
しかし先日には、「体操でもやってくれれば……」と。どうも私が、「歌は自信ないです……」と言い続けたことに、気を遣ってくれたようだ。

そこで、椅子に座ったままでできる体操を、以前に勤めていたデイサービスで行っていたものを中心にまとめてみた。言うまでもなく私は体操に関しては何の資格も持ってはいないのだが、専門家が一般の方向けに作成したメニューを紹介するだけなら問題はあるまい。

しかし2日前にした打ち合わせでは、「皆さんは椅子ではなく、畳の上に座りますので……」とのこと。考えてみれば公民館なのだから当たり前ではある。しかしそのため、畳の上でできる体操を紹介せねばならなくなった。

そこで探したのがこれだ。群馬県の国保連(国民健康保険団体連合会)が普及を図っている、「さわやかのびのび体操」である。
http://gunmakokuho.or.jp/health/gymnastics/gymnastics1/
http://gunmakokuho.or.jp/health/gymnastics/gymnastics2/

これに加え、立って椅子の背などにつかまって行うことができる骨粗鬆症予防の運動と、転倒予防のための筋力トレーニングをご紹介。さらには、私が以前勤めていたデイサービスの作業療法士が行っていた、素足で小石を掴む運動にも触れてみた。

そして残りの時間は、ギターを弾きつつ、参加者と一緒に歌をうたったのだった……

さすがに施設の入居者さんたちと比べれば、皆さん歌がお上手である。私が人一倍大きな声を出して、外れた音程やリズムを修正する必要など全くなかった。

そして皆さんと一緒にお茶をいただき、帰ってきた。
楽しんでもらえただろうか。それが今でも心配なのだった。

他人への寛容さ

私の経験則であるが。

他者の技能の低さやミスに対する寛容さは、その人自身の習熟度および能力と相関するのではないだろうか。

全くの初心者の時には、たいていの人は他者を批判するどころではない。しかしやがて作業に慣れていくに従い、他人に厳しくなる。その厳しさは初心者から中級者へと移行するあたりで最大となり、その後は次第に低下していく。

これは、例えば他人が間違ったことをしていても咎めない、という意味ではない。間違っていることに対しては、きちんと指摘するべきである。
「できない」ということを許容しフォローする、ということだ。できないものはできないということを認めた上で、前向きに、できるようになるよう根気強く教えるか、あるいは自分が補う。それが本当に仕事のできる人の態度である。

介護の仕事も然り。「あの人は○○でダメ」などと他人の悪口ばかり言う人は、その人自身も大した仕事をしていないことが非常に多い。そしてそういう人は、えてして「初心者に毛の生えた程度」から成長しない。いつまで経っても立派なのは口だけだ。

少なくとも私は、本当に仕事ができる人で、初心者に寛容でない人には会ったことがない。尊敬できる仕事をしている人は、他人を指導しフォローする心の余裕も持っているのだろう。

PCの操作においてもそういうことがある。
あてがわれたソフトウェアをそこそこ使えているというだけで、PCの操作に習熟していない人を「あの人はパソコンも満足に使えない」などと批判したりする。
しかしそういう人に限って、「お前は他人のことをとやかく言う前に、まず英数字を半角で入力できるようになれ」とこちらが言いたくなるくらいに、大したスキルは持っていないものだ。お前もあの人と大して変わらないよ、と思う。

常に心には余裕を持っていたいものだ。

思いやり

介護においてよく用いられる曖昧な言葉の一つに、「思いやり」がある。
「思いやりのあるケアをしなさい」「あなたは思いやりがない」などと言われる時、それが具体的に指し示す内容は、万人で共通したものになっているだろうか? あなたは、その言葉を発している相手が言わんとしていることを、正確に理解しているだろうか?

今日はこの「思いやり」について考えてみる。
言葉を定義することが目的なのではない。それを介護において活かし、ケアの質を高める技術とするためである。
努力して習得することが難しい、個々人の持つ天性の素質という領域に含まれるものを、努力することで誰しもが身につけられる技術にする。それが、私がこのブログで試みている「マイクロケア」である。

まずは世間での共通概念を確認するため、いつものように広辞苑第五版から引いてみよう。

おもい‐やり【思い遣り】
①思いやること。想像。源氏物語 蓬生「―のさびしければにや、此の宮をば不用のものに踏み過ぎて」
②気のつくこと。思慮。源氏物語 槿「いと―もなく人の心も見知らぬさまに」
③自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情。「―のある人」

最も普通の用いられ方は③であろう。自分の身に照らして考えてみる、というところがポイントと言えそうだ。
以前にエントリ「優しさ」で、私は「優しさ」を「受容」「共感」「利他」に細分化した。そしてこの「共感」を、「自分を相手の状況に置き換えてみることで、相手の体験を己のものとして主観的に体験すること」とした。つまり、「思いやり」と「優しさ」は、どちらも「共感」を含む。異なるのは、そこから先である。
私は、「優しさ」となるのはやはり「共感」が「利他」的な行動に結びつく場合であると考える。逆に言えば、「思いやり」は相手の利益のために積極的に行動する場合にのみ用いられるのではないと。

では、「思いやり」の独自性とは何か。
それは「自分を殺す」こと、簡単に言えば我慢することではないかと私は考えている。

言葉にならない声を大声で発する方がいるとする。
もしも相手に対して何の配慮もいらない状況であれば、それに対する人間として最も自然な反応は「うるせえ! 黙れ!」と怒鳴ることであろう。
しかし我々人間は社会生活を営む生物である。それをそのまま実行して差し支えない状況など、実際にはほとんどない。そのため、怒鳴ることはせず、もっと柔らかい言い方を探すか、あるいは何も言わないかであろう。
単に周囲の目を気にしたために己を律したのみであれば、それは「思いやり」とは呼べない。しかし、「病気のようなものだから仕方がない」と考えるか、あるいはさらに一歩進んで、「あんな声を上げるくらいだから、あの人は心の中で、さぞ苦しい体験をしているに違いない。可哀想に」と考えた結果、「うるさくとも我慢しよう」と、黙っていることを選択する。こうなると「思いやり」となる。
(ちなみに、この例で「優しさ」とは、例えば傍に行って手を握る、といった行動を起こすことである。)

ケアにおいては、何か腹の立つ、あるいは悲しいことがあったとしても、まずは相手の身になって原因を考えることで、自分の中に余計なストレスを溜め込むことなく、適切な対処をするための第一歩になる。私はこのことを以って、介護における「思いやり」と定義したい。

「優しさ」とは、自ら進んで相手の身になって考え、相手の利益を図る行動を起こすこと。
「思いやり」とは、何かマイナスの感情が自分の中に芽生えそうになった時に、相手の身になって考え、自分の感情を統制すること。

ただ、我々が行う介護においては、「思いやった」だけでは意味がない。相手の方の「生理」「感情」「意思」を確認する「気づき」、相手の方にこれから起こる事態を先回りする「気配り」、相手の方の利益となることをする「優しさ」へと繋げていく必要がある。

今日は非常に当たり前のことを、回りくどく、もっともらしく述べたのに過ぎないと感じられるかもしれない。
しかし、それでいいのだ。技術にするというのはそういうことなのである。