休憩と残業

何の数字的根拠もなく言うが、介護に限らずあらゆる仕事では、休憩時間をしっかりと確保し、必要があって残業する場合にはきちんと時間外手当を支給する方が、事業所は却って人件費を抑えられると私は信じている。

休憩は、大きな施設であれば、きちんと確保できているところが多いかもしれない。しかし小さい施設だと、利用者さんと一緒に食事を食べ、しかも食事介助を行いながらであるのに、それが休憩時間に当てられているところもある。
これでは職員の気は少しも休まらないので、休憩にならないのはもちろんだが、それだけでは済まない。拘束されている9時間の間、ずっと気を張って働き続けられる者などいないのだから、休憩がなければ、その分どこかで気を抜くしかなくなる。
この結果、仕事と休憩のメリハリがなくなる。もし、きちんと休憩時間を確保し、勤務時間には全力で仕事をさせるようにすれば、職員は同じ時間でもより多くの仕事をこなせるようになるかもしれない。そうなれば、人手をその分減らすことができる。

残業についても同じだ。
必要に迫られて(例えば救急車に同乗するとか)時間外に働いているのに、その分の手当が出ないとなると、人は必ずどこかで帳尻を合わせようとする。つまり、勤務時間内に気が緩む。
一度気が緩めば、それはどんどん悪化する。その結果、本来なら通常の勤務時間内にこなせるはずの仕事ができなくなり、8時間の間に10の仕事ができる能力があるのに、 10時間かけて8の仕事しかできなくなったりする。

しかも、これは私が経験してきたこととして書くのだが、時間外手当を支給した方が、時間外労働を減らすことができる。
職員は時間外手当欲しさに、無駄に残業するなどということはまずない。逆なのだ。「お金をもらう以上、止むを得ないときでなければ残業はすべきではない。なるべく定時の中で終わるようにしなければ」と考えるのである。いわば良心に働きかけるのである。

さらには、休憩がないことや時間外労働から職員の不満が募り、入れ替わりが多くなれば、なおさら余計な人件費を払わなければならなくなってしまう。新人が独り立ちする前に退職されてしまえば、その間の給与は完全に無駄になる。古株の職員にボーナスでも支給した方がはるかにましだ。
もし、時間外手当はなくとも、賞与や昇給で評価されるなら、それでも良いかもしれない。しかし、そういったものも全くなければ、はっきり言って真面目に働くだけ損である。

こういったことが常態化し、それにより離職率が高く、サービス向上の足枷となっているのが今の介護の現場だ。
こんなことは別に私がことさら書かなくとも、業界では常識だと思うが。

ヒヤリハットや事故報告書は誰が書くのか

ヒヤリハット(インシデントレポート)や事故報告書(アクシデントレポート)は誰が書くべきなのか。

これを、「第一発見者が作成する」としている事業所は多いだろうと思う。私がこれまで勤めてきた事業所も、どこもそのように規定していた。
その理由は、

1. 発生時もしくは発見時の状況が一番正確にわかるのが第一発見者であり、第一発見者がそのまま初期対応を行うことが多いから
2. 当事者、つまり事故(もしくは事故に至る可能性のある状況)の原因を作り出した当人に書かせると、まるで始末書のように思われてしまいがちだから
3. 第一発見者が当事者でなければ、全体を客観的に見ることができるから

といったところだろう。
しかし、これは全てのケースに当てはまるとは限らない。例えば誤薬事故で、飲むべき薬を飲んでいただくことを職員が失念した場合、発見するのは別の職員であったりする。しかしその職員には、誤薬に至った経緯は何一つ分からない。なので、事故報告書は単に「薬が残されているのに気付き、看護師に報告した」というだけの内容になってしまうか、あるいは服薬介助を忘れた当事者である職員から詳しい状況を聴取して記載するか、そのどちらかとなる。
ここで後者の行動を採るのは、決して悪いことではない。しかし発見しただけの職員からすれば、たまたま見つけたばかりに面倒な仕事をすることになったのではかなわない、ということになるだろう。

となると、考えられる方法は2つ。

a. 当日のリスクマネージャーを定めておき、インシデント/アクシデントを発見した職員は速やかにリスクマネージャーに報告。報告書はリスクマネージャーが作成する。
(これでは厳密には「報告書」ではなくなっているとは思うが。)
b. 当日のリスクマネージャーが、誰が報告書を作成するのかを判断し、指示する。

である。
いずれにしろ、少なくとも日勤帯については、その日、その時間、誰がリスクマネージャーなのかを定めておくことが必要と言えそうである。でなければ、誰が報告書を書くのかといったつまらないことで、職員間に軋轢が生じかねない。

私が、より優れていると思うのはb.だ。事故の状況を詳細に、かつ簡潔に書くことや、原因を考えることは、全ての職員にとって良い経験となるからである。もちろん、リスクマネージャーは上がってきた報告書に目を通し、必要に応じて書き直しを命じたり、対策を指示したりしなければならない。

さて、今日のエントリは、まさに私が誤薬事故(臨時薬の服薬介助を失念した)を起こしてしまったことから考えたものである。もちろん反省しつつ、そしてすかさずブログのネタにするのだ。
転んでもタダでは起きんよ。

電波による転倒・転落の感知

「電波を用いた転倒・転落監視システム」の開発に成功
http://www.keio.ac.jp/ja/press_release/2013/kr7a4300000cbrc1-att/130716_1.pdf

一部を以下に引用する。

電波を用いた「行動・状態識別センサ(アレーセンサ)」と、車のスピードや球速を計測するとき等に用いられている「ドップラーレーダ」を用いた転倒・転落監視システムの開発に成功しました。それらセンサにより、空間の電波の伝わり方の変化と、転倒・転落によるドップラーシフトをそれぞれ検出し、それらに基づき、センサなどを身につけること無く、人の転倒・転落を検出することができます。センサから直接見える場所での転倒を95%以上、物陰など直接は見えないところでの転倒も85%以上の確率で検出することに成功しました。

一読して最初に思ったのは、「転倒や転落してから分かっても遅いよ」ということであった。
もちろん、転んでしまった時には、それが即座に介護者に伝わった方が良いに決まってはいるが、実際には「転んだ時にすぐに分かったら良かったのに!」と悔やまれた経験は今までほとんどないと思う。少なくとも記憶にない。
それは、大抵の場合、転倒した時にはそれなりに大きな音がするものなので、少なくとも施設では(もちろん自宅では様々な状況があるだろうが)、すぐに気付くことが多いからだ。
転んだのに気付かず対処が遅れるという事態を防ぐよりも、それ以前の、転倒の前の段階に対策を講じることが求められているのである。

ただ、自宅の場合は、必ずしも近くに誰かがいるわけではないので、独居の高齢者などには心強いかもしれない。その場合には、感知範囲と価格との兼ね合いということになるだろう。
もっとも、そうなると危険なのは転倒や転落だけではないので、それらに特化したこの技術が普及するかというと、少々怪しいかなと思っている。

しかし、例えば。
転倒を感知するのが、体が床に付く前であったなら、感知した瞬間に床に配置したエアバッグ様のシートを膨らませ、衝撃を和らげるといった技術に、さらに発展させる余地はあるかもしれない。だがそこまで来るともうSFかな、という気もしないではないが。

社会福祉士通信教育

エントリ「書類のデジタル化」を書いてからというもの、まさに書類のデジタル化を着々と進行中。家では趣味の雑誌などを、会社では仕事関係の書類をスキャナで取り込んでPDF化している。

そのさなか、社会福祉士を取得した際の書類が出てきて、懐かしくてついつい見入ってしまった。かれこれもう7年も経つんだなあ……としみじみ。

私は一般大卒なので、受験資格を得るために通信教育を受講した。期間は2年弱。
成績表も残してあったが、平均点以下の数字が並んでおり、私は決して良い成績ではなかったのがわかる。
成績はレポートによって付けられ、レポートは小論文形式のものと、選択式のものとがあった。どちらもしっかりとテキストを読み、参考となる文献を当たるという、学習の基本を行ってさえいれば難なく解ける問題であったはずである。しかし、当時の私は仕事が多忙で……というのは単なる言い訳か。社会福祉士の試験は、面接授業での講義やレポートで学習することとは全く別で、必要なのはあくまで暗記を中心とした試験対策勉強だと思い込んでいた。
何故私がそう思うようになったのかは覚えていない。誰かにそうアドバイスでもされたのだったろうか。いずれにしろ、それは決して間違ってはいないとは思う。

2年近く、期限が近づくとネット検索頼りのレポートを提出し、年に一度、一週間ほど続く面接授業に出席する。そうした日々を続け、試験勉強を本格的に始めたのは試験の3か月ほど前だったと記憶している。

参考書と、養成校のくれた要点のまとめから、重要だと思える事柄をテキストファイルに書き出してiPodに転送。それをこまめに見ていたのは、ケアマネの試験について、エントリ「ケアマネ試験勉強」で書いたことと同じである。
過去問は3年分ほどしかやらなかった。

こうして何とか合格できたわけだが、試験対策の暗記などというものは時間が経つと忘れてしまう。本当に身に付くのは、試験を想定していない、本来の学習である。
その部分をサボってしまった私は、資格を持ってはいるものの、胸を張って「自分はこれを持っている」と言える何かがあるのだろうかと考えてしまった。

センサーマットによる自立支援

エントリ「『身体拘束=悪、身体拘束廃止=善』?」などで何度か書いているが、センサーマットによる見守りは、「動くとすぐ職員が飛んで来る⇒自分は常に監視されている」という心理的な拘束になりうると思っている。この考え方自体は別に目新しいものでもなんでもないだろう。
だからセンサーマットは使用すべきでない、と言いたいわけではない。全ては目的と使い方である。これも前掲のエントリで書いた時から考えは変わっていない。
また例え転倒するリスクが少なからずあっても、ご本人さんやご家族さんには、自室内ではある程度自由に行動する生活を選択していただいても良いとも思っている。どれだけ施設が転倒を防ごうと努力しても、転倒・転落の危険性を0にすることは不可能である。

さて、ここでセンサーマットを使用していない、認知症が進んで来て身辺自立の度合いが落ちてきている方を想定してみる。
転倒のリスクは低くなく、実際に転倒されたこともある。その時の状況が、例えば早朝、自分で着る服を洋服ダンスで選んでいてバランスを崩してしまったのだとすると、職員は、同じことが繰り返されないよう、先回りしてお手伝いしよう、と考える。
そうして、職員が朝早めにお部屋に伺い、起きていただいて、そこからゆっくりとご自身のペースで着るものを選んでいただき、着替えを見守ることができれば問題はない。しかし、高齢者が目を覚まされる時間にはそう大きな差はないので、職員は他の方の介助にも入らねばならず、その方だけに時間をかけているわけにはいかない。その結果、服を選ぶのは職員が行ってしまい、しかも更衣もかなりの程度を介助する、ということになってしまう。
本来できるはずのことを奪ってしまっているわけだ。

ここで、もしもセンサーマットがあったらどうだろうか。
職員は、センサーマットが反応した時のみ訪室し、ベッドから離れておられる間、時間の許す限り見守って、それ以外の時には安心して他の方の介助に入ることができる。その方は、自分で服を選び、着ることを続けられるわけだ。
こうなると、センサーマットは危険防止だけではなく、自立支援にも役立っていると言えないだろうか?

全ては目的と使い方なのではないか。