ネットでケアマネ選び

ネットで、要介護高齢者や家族によるケアマネ選びをサポートするサイトがオープンしたとの情報を見た。
そのサイトを紹介するつもりも批判するつもりもないのでリンクは貼らない。

おそらくはWAMネットあたりから引っ張ってきた居宅介護支援事業所の情報に、事業所の特色など独自の情報を追加、口コミも投稿できるようになっているらしい。

まあ、特に新しいアイデアはなさそうだし、成功はしないだろう。
現在の介護者世代は、まだまだネットに馴染みが薄い。

それに、「ケアマネ選び」ということ自体、実状からかけ離れている。ケアマネは給付管理数に制限があるので、多くのケアマネの担当者数は常に上限ギリギリである。そのくらいでなければ利益が上がらないのだから仕方がない。
その結果、新規の方の担当を「あの人にお願いしたい」と思って紹介しても、「今はいっぱいです」と断られてしまい、結局地域包括支援センターに、「担当者数に余裕のあるケアマネさんをご存じないですか?」などと尋ねることになる。

また、いくら事業所の良し悪しを情報として提供しても、そもそもケアマネの良し悪しは所属する事業所ではなく、その人個人の資質に多くを依っている。評判が良い事業所だから所属するケアマネが皆優秀、というわけではない。逆もまた然りだ。(このことは以前にもブログに書いたかな?)

理想はもちろん、利用者さんがケアマネを自由に選べることである。しかしそのためには、給付管理費をもっと上げ、ケアマネが余裕を持って普段の業務に当たれるようにならなければまず無理だろう。

ケアマネ選びに限らず、サービス事業所(特に施設)選びにしても、利用者が本当に「選べる」ようになるのは果たしていつになるのだろうか。

人形療法

ふなっしー、というゆるキャラをご存じだろうか。

千葉県船橋市の非公認ご当地キャラで、どこの団体でもない、一個人が勝手に始めたものだ。当初はどこからも相手にされていなかったのだが、Twitter等を通してじわじわと人気を集め、少しずつイベントへの参加が認められ、テレビで報道されることもしばしば。アサヒ十六茶のCMでは新垣結衣と共演している。

うちの奥さんが、ふなっしーをいたくお気に入りで、どうしても見たいと言うので参加イベントへ見に行ったことがある。テレビで見た通り、奇声を発しながら激しい動きをしていた。それは明らかにゆるキャラの「可愛さ」ではなく、狂気の発する魅力だろう。人がムンクの「叫び」を高く評価するのと同じだ。

それにしてもゆるキャラは大隆盛である。2010年からはゆるキャラグランプリが開催され、熊本のくまモンの経済効果は200億円を超えているとされている。
なぜゆるキャラがここまで人気となっているのか。

ゆるキャラは、命名者のみうらじゅん氏による定義の中に、着ぐるみ化されていることという条件が挙げられている。ポイントはここにあるのではないか。
つまり、ゆるキャラは視覚的な刺激だけでなく、視覚を通して、触覚にも訴えかけているのではないかと思うのだ。子供が縫いぐるみに特別な愛着を持つように。

さて、そこで今日の話題。
ドールセラピー、すなわち人形療法というものがある。まずは英国の記事を一つご紹介。

Care homes use ‘doll therapy’ for residents with dementia
http://www.guardian.co.uk/social-care-network/2013/apr/29/care-homes-doll-therapy-dementia

イギリスで、認知症の方への人形療法を導入する老人ホームが増えてきているという。
当初は、「幼稚だ」「押しつけがましい」などの反感が多かったらしい。しかしいざ導入されると、確かに効果が感じられ、抵抗もなくなってきたという。

なぜ人形を抱くことが、認知症状の緩和につながるのか。記事では、人形との関係が親子関係を想起させることが一例として挙げられている。ただし、子供がいない方にでも効果があるようなので、それが全てということもないだろう。

「人形療法」でググってみる。滋賀県立大学の畑野准教授という方が研究され、論文もいくつか発表されているようだ。残念ながらネット上で読めるものは見つからなかったので、内容ははっきりしない。

私の人形療法に対する仮説はこうである。

1. 人形は子供や動物と同じように、「(自分よりも)弱い」者として、守ろうという本能を刺激するため、可愛いものと認識される。可愛いものを見るのは快いので、認知症の不安を和らげる。
エントリ「I love you」で書いたようなことだ。

2. 人形は触覚を刺激する。触覚は人間にとって最初に世界を認識する手段であり(何しろ新生児は目が開いていない)、乳児は主に触覚によって母親との関係を築き、安心感を得る。
人形への接触は、乳児期、母親の温かい感触に心地良さを覚えていた頃への退行である。

3. 認知症になると対人関係の維持構築が難しくなる。エントリ「タクティールケアと対人関係論」「周辺症状は対人関係の障害から現れる」で書いたように、周辺症状は対人関係の障害から生じるが、人形を可愛がることは疑似的な対人関係となるため、症状を軽減する。

人形が全ての認知症の方に良い効果を及ぼすということはないと思うが、人形を抱えていることが、明らかに精神状態の安定に一役買っていると思われる方にはこれまでにお会いしたことがある。
私の印象としては、人形が良い効果を及ぼすのは、不安が焦燥感を生み、帰宅願望や多動が現れている女性のアルツハイマー型認知症の方などである。こうした方には試してみるのも良いのではないかと思う。

ところで今日のエントリ、ふなっしーから人形療法というのはいくらなんでも無理がある……というのは自分でも気づいているので、スルーしていただくよう願う。

バーンアウト

「燃え尽き症候群(バーンアウト・シンドローム)」という言葉がある。心理学、というより医療・福祉の世界でよく使われる言葉だ。

一般には、緊張が持続する一方で成果の現れにくい職業に就く者が、突然大きな倦怠感や虚脱感に襲われてしまう不適応状態を指す。
普段精力的に仕事をしている人ほどかかりやすいのだとか。

何か大きなことをやり終えた後の虚脱感、という意味でこの言葉が使われることもある。例えば毎日熱狂していたワールドカップが終わってしまった後とか。しかしこれはたぶん誤用だろう。

まあ、頑張っているのにそれが一向に成果として現れてこない、誰も評価してくれない、となれば虚しくなるのも当たり前ではある。医療や福祉の世界でこうした状態になる人が多いのも頷けよう。
私も、不適応状態とまではいかなくても、落ち込むことは多々ある。

実は今も、プチバーンアウト中である。
いや、仕事が嫌になったとかいうことは全然なく、普通に働けているとは思うのだが、仕事外で介護のことを考え、ブログを書くのが面倒になっていたりするのである。と言うか、何もする気が起きない……

そんなわけで、昨日もブログの更新を落としてしまった。
まあ、マイペースで無理せずにいきますか。

世間はゴールデンウイークだしね。

【書評】葉真中顕 『ロスト・ケア』

私は、介護を扱った小説や漫画、映画などのフィクションにはあまり惹かれない。読もう、観ようという気が起きないのだ。

理由は自分でもはっきりしないのだが、フィクションを愉しむことは現実からの逃避なので、愉しんでいる間にまで仕事のことを思い出させられるのは御免だ、という気持ちがあるからではないかと思う。
もしくは、自分が全く知らない世界が描かれていれば、たとえ事実と違うことがあっても気が付かずに読み進められるが、なまじ知った世界だと、些細な過ちが気になってしまって没入できなくなるからなのか。

とは言うものの、私はフィクションにはリアリティなど求めていない。奇想すなわち「よくこんなこと思いついたなあ」と思えることがほぼ全てだと言っても良い。だから読むのはミステリが多い。

しかしこの本を手に取った動機は、ミステリだから、フィクションとして愉しめそうだからと言うよりも、仕事の一環のようなものだと言った方が正しいかもしれない。
介護が、世間から注目されるエンタテインメント作品(何しろ賞を受賞してのデビューなのだから)の中で、どのように採り上げられているのかが気になった、とでも言えばよいか。

さて、一読しての感想は、「傑作だ」というものだった。

日本の抱える社会問題としての介護については、業界に身を置く人間としてはごく当たり前のことしか述べられていないものの、一般の人にはそうとは言えまい。エンタテインメント作品において、家族介護者、介護従事者、そして第三者のそれぞれの視点からこれだけ「介護」を見つめたものは例がないと思う。

また黄金律すなわち「自分が他人にしてもらいたいと思うことを、他人にもしなさい」が、これだけ犯罪にぴたりと嵌る、つまり善行と罪とを一致させられるのは介護という問題をおいて他にはないだろうし、そこに着目して犯罪小説を書いた作者の発想力には拍手を送りたい。

ただ、気になった点もないわけではない。

確かに日本の介護保険制度は優れた制度ではないし、介護を取り巻く現状と今後の予測は明るくはない。しかし犯人に殺人へと向かわせることとなったような状況でも、救いの手が全くないということはない。家族が自らに強い呪縛をかけさえしなければ。
犯人も介護業界に精通しているのなら、死だけに救いを求めるというのは、いささか知識不足の誹りを免れまい。
ケアマネは何をしているのだろうかと思ってしまう。そう、この物語には相談援助者が存在しない。別に主たる登場人物にする必要はないが、影さえ全く見えないのは、今の日本の介護を描く上ではやはり不自然である。

また、質の高い認知症ケアを受け、自らの望むような最期をと考えた時には、お金さえあれば高級有料老人ホームがベストとは全く言えない。この点は読者に誤解して欲しくないと思う。
確かに、認知症がないか、あっても軽度で、ゆとりのある豪勢な生活をと思えば、高級有料老人ホームに勝るところはない。しかし認知症や不治の病(多くは癌だ、もちろん)が進行した状態であっても安心して過ごせる環境を提供するのは、豪奢な建物でも金で買えるサービスでもなく、人である。
人というのはつまり家族と、そして介護・看護スタッフだ。高級有料老人ホームだから、スタッフも経験豊富で、志も心もある、というわけではないのである。このことは介護従事者として譲れない。

また、登場する認知症状も少し違和感がある。まだらに出ている状態でアレはないよな、という感じだ。しかし人間に関することで絶対ということなどないのだし、私が細かすぎるのかもしれないとは思う。

最期に、ミステリとして評するならば。
(以下、本の結末部分に触れています。つまりネタバレしていますので、文字色を白にしてそのままでは読めないようにしておきます。既に読んだ方か、結末を知ってしまっても構わないという方のみ、マウスでドラッグするなどして読んでください。)

最初から叙述トリック臭が漂いまくっている。
団が真犯人であるならば、<彼>などという表記は必要ないはずなので、ということは真犯人は団ではないのだな、と容易に想像がつく。そうなると真犯人が誰かは目星がついてしまう。途中で「この人物が真犯人だったらちょっとアンフェアだよな」と思っていたら、実際にその通りになってしまった。一人称ではないのだから、書くべきことを省略してもアンフェアとは言えない、ということにはならないだろう。

そもそも叙述トリックは、作者が真相を明かすことで、読者がそれまで読みながら築いてきた作品世界を、一気に反転させることで最大の効果を生む。しかしこの作品の叙述トリックはそこまでいっていない。反転までいかず、ほんのちょっとズレるだけ。しかも叙述トリックがあるであろうことは最初からバレバレだ。いっそ叙述トリックなど使わず、普通のフーダニットにした方が良かったのではないか。
だが、これはミステリ好きでなければ感じないことで、そうでない読者は単純に驚けるのかもしれないとも思うが。

(ネタバレはここで終了です。)

とまあ、いささかケチをつけてしまったが、それでも介護の現場にいる者としては、やはり「よくぞ書いてくれた!」と思える。とりわけコムスン事件について、その中にいた者が描かれているのは評価したい。
私の知人にも、コムスンでサービス提供責任者をしていた人がいる。どんな困難ケースでも、どんな僻地でも決してサービス提供を断らず、早朝から深夜まで働き詰めであった。
彼女に限らず、現場で真面目に頑張っていた人間は多かったのに、社会的には悪とされてしまった。

この作品で描かれているのは、現代の日本を生きる人であれば、一度は考えてみなければならない問題であることは確かだ。
介護業界人には今さらと思えることかもしれないが、それでもやはり、エンタテインメント作品としては素晴らしいと思った。

(評価:★★★★☆)

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神を求める心

フランスの文学者、アナトール・フランスの『エピクロスの園』にこのような箴言がある。
(記憶だけで書いているので、句読点など微妙に違っているかもしれない。書庫に探しに行くのも面倒なのでご勘弁を。)

人生においては、偶然というものを考慮に入れなければならない。偶然とは、つまるところ、神である。

例えば人は不幸に見舞われた時に、そこに理由を求める。「いったい自分が何をしたというのか?」と。
そこに答はない。敢えて言うならば「偶然」である。
しかしそれでは納得ができない。全ての物事には理由があるべきだ。そこで人は神を必要とする。「偶然」を「神の意思」に置き換えるわけだ。

神とは、自らの理解の及ばぬ領域に、理由を与えてくれる存在なのである。
進化論以前、全ての生物は創造主たる神によって創られたと考えられたように。

現在では、神を信じる人は少ない。しかし理由を求める心には変わりがない。理由が見つからずに苦悩している時、断定的な言葉でそれを示してくれる者が現れると、容易に惹きつけられる。
その言葉を受け容れれば、自分の苦悩を終わらせることができるから。

神は今でも必要とされている存在なのである。

そして、答えを示す者も神に囚われている。自らの言葉に感銘を受ける者が多いという事実は、自らの言葉が正しいからであるという錯覚を生じさせる。

私の言うことは正しい。私のすることは正しい。すなわち、私は何をしても良い。

だから私は、自らの信念を大声で説く者など胡散臭いとしか思わないし、自分もそれをしようとは思わない。
私は宗教を必要としていない。少なくとも、今までのところは。

しかしそれは同時に、既に一つの大きな宗教を持っているということでもある。
ヒヨコ教という、自分だけの宗教を。