仰げば尊し

施設や居住系サービス事業所の利用者さんで、学校の先生をされていた方には、元教え子の方が面会に来られることが少なくない。
中には、家族並みの頻度で来てくださる方もいるくらいである。

私は、小中高の担任や部活の顧問などで、今でも会いたいと思える先生は一人もいないし、そもそも特に恩を感じてもいない。
私の方も、教師から好かれてはいなかったと思う。最も教師に嫌われるのは、反抗的でなおかつ成績が良いタイプである。同じ反抗的な生徒でも、いわゆるヤンキーはむしろ可愛がられたりするのだが、これは教師側に、ヤンキーの暴力に対する恐れからくる媚びに似た感情があるためではないかと思っていた。こんなことを内心考えている生徒が、教師の目にかわいく映るわけがない。
恩師と呼べる先生がいないのは、もちろん自分のせいであるが、不幸な環境にあったとも言えるかも……いややっぱり自分の問題だな。

そんなわけなので、元教え子の方が入居者さんのところへ面会に来られると、「ああ、この入居者さんはいい先生だったんだな」と思わずにはいられない。
元教師の方は、エントリ「妄想へのアプローチ」で書いたような傾向があったりと、えてして頑固である。かつてはその性格こそが優れた職能だったということか。

現代の日本は、家族や血縁関係、近所付き合いが弱くなってきているだけでなく、先生と教え子、また同窓生同士の繋がりもなくなってきている。私が高齢者になる頃には、教え子がかつての先生のところへ面会に来るなんていうことはなくなってるんじゃないかな、なんてことを考えた。

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【書評】橘木俊詔 『無縁社会の正体 血縁・地縁・社縁はいかに崩壊したか』

電子書籍は思いの外便利である。
最も便利なのは、夜にベッドの中で読んでいて、眠くなったら部屋の灯りを消すこともなくそのまま眠れることではないだろうかと思う今日この頃。

さて、再びiTunes Storeで何か電子書籍を買おうと思い、先だって読んだばかりの『安心の社会保障改革 福祉思想史と経済学で考える』と同じ著者のものを選んでみた。

「無縁社会」とは、当たり前だが「縁のない社会」である。縁とは「血縁」「地縁」などを指すが、国が地域包括ケアを進めようとしている中で、この「縁」について改めて考えてみるのもよかろうと、この本(電子書籍だけど)を買ってみた次第。

単身の高齢者が増えている(しかも経済的に困窮している)こと、また結婚しない(しても子供を作らない)人が多く、離婚も多いことについて、データを元に近年の日本の傾向が読み解かれていく。どれもよく言われていることではあるので新鮮な驚きはないものの、興味深い。

また血縁と地縁、そして社縁についても概括される。
「社縁」というのは、その文字を見た時には神社を中心に祭などを行うまとまりのことかと思ったが、そうではなく「会社」の「社」であった。ここは読んでいてもどうにもピンとこない。著者がずっと学問人生を送っていて、実際の会社のことをあまり知らないのではと思えるせいか。

さらには児童虐待、DV、フリーターやニートの増加についても言及される。こうした社会問題も、現代の家族の姿と深く関わっているからだ。

さて、日本が失ってしまった「縁」は取り戻せるのだろうか。
著者は、それは不可能であると述べる。個人が個人として不安なく生きていけるようにするしかないのだと。
しかし日本人はもともと自立心が低い。移民の国であるアメリカとは違うのだ。よって個人の自立に頼るのではなく、公共部門の介入を提案する。具体的には、家族単位で加入している社会保険制度を個人単位にすること、問題を抱えた個人を社会が支えるための各種福祉施設の充実などである。

また、共同生活(コレクティブハウジング)も提案される。友人や知人を集めて共同生活を営むというものだ。

最後に、民生委員やNPOへの期待を述べてこの本は締めくくられている。
民生委員には報酬を出してもいいのではないかと書かれており、それは確かに一つの案ではあると思うが、介護業界に身を置く者としてはやはり地域包括支援センターに期待したいところだ。

福祉においては、やはり統計と本から得た知識だけで書かれても説得力に欠ける、というのが正直な印象。
しかし全体として、様々な社会現象についてのデータに基づく分析はうまくまとまっているので、概観するにはもってこいである。

さて、もっと電子書籍を買いたいのだが、何しろiTunes Storeはまだまだ数が少ない。福祉関係で惹かれるものが見つけ出せずにいる。
今更ではあるが、三好春樹さんの『まちがいだらけの認知症ケア』か河野和彦先生の『認知症 家族を救う劇的新治療』でも読もうかな……

(評価:★★★★☆)

(Kindleで電子書籍を買う)
(iTunes Storeで電子書籍を買う)

課題を遂行する作業は認知症の悪化を防ぐ(という仮説)

今日これから述べることは、ただの仮説に過ぎない。研究に裏付けられていない、単なる私自身の経験に基づく考えである。

エントリ「高齢者とテレビ」で、長い時間テレビを観ていると、認知症のリスクが高まるという研究について記した。
しかし、そもそもテレビの何がいけないのだろう。

テレビを観ることは、受動的な行動である。こちらから何もしなくても情報が流れてきて、労せず時間を潰せる。これが一番の理由なのではないか。
上に紹介した研究では、テレビゲームは認知症予防に良いとされていたが、ゲームの何が脳に良いのかと言うと、私は能動的に課題を遂行するというプロセスではないかと思う。

人間(の脳)には、常に能動的に課題に取り組み、考え、解決していくという過程が必要なのである。

先の研究でテレビゲームと同じく認知症予防に良いとされていた読書も、やはり能動的な行為である。文章を読み、ある程度理解してからでなければページを繰っていけない。
手芸も、始めに全体像を考え、それを形にしていくのであるから、課題遂行そのものであると言えるだろう。

逆にストレスは認知症のリスクを高めるとされているが、では人間はどういうときにストレスを感じるのか。全てがそうではないにせよ、遂行できない課題、解決できない問題に直面し、葛藤したときが最も多いのではないだろうか。

考えても答が出ない。それでいて頭から離れない。
こうなると、脳は考えなくても済む状態を求めるようになるのである。つまり、忘れっぽくなる。

忘れっぽくなると、生活上の支障に直面することになるが、そこで人は自らの衰えを認めて辛い思いをせずに済むように、環境に原因を求めるようになる。
そして対人関係がうまくいかなくなり、精神症状としての周辺症状が現れる。

学習療法は、読み書きや計算、数字盤そのものよりも、「課題をこなす」ことこそが重要なのではないだろうか。
くもん学習療法センターによると、計算も、複雑で難しい問題より、それこそ「4+7は?」というような簡単なものの方が、脳の前頭前野が活性化するという。重要なのは、困難な課題に取り組むことではなく、無理なく解決できる課題に取り組むことなのだ。

認知症にならないために、また認知症の進行を少しでも抑えるためには、何か課題に取り組み、それを遂行するというプロセスを体験してもらうのがいいのではないか。
難しすぎても駄目だし、また手が覚えてしまえるような単純な機械的作業でも駄目。考えながらできるようなことを。

今後ケアプランに少しずつこうした視点を入れていってみようかなと思った。

さて、今日の内容は脳の器質的変化について考慮していない。
しかし、日々の精神活動から脳が変化するのか、脳が変化するから日々の精神活動が変わるのか、おそらくはどちらか一方が正しいというものではない。相乗効果によって進んでいく面があるのであり、そのために、行う活動によっては認知症のリスクを下げることができるのだ。

……という単なる仮説。

高齢者と貯蓄

総務省統計局が毎年報告している『家計調査年報(貯蓄・負債編)』の平成23年版で「世帯属性別にみた貯蓄・負債の状況」を見てみよう。
http://www.stat.go.jp/data/sav/2011np/pdf/gk03.pdf

世帯主が60歳以上の世帯は全体の47.0%であるが、貯蓄全体の64.6%を占めている。こうした世帯は増える傾向にあり、そのため貯蓄全体に占める割合も増加している。
さらに、貯蓄現在高が2,500万円以上の世帯が全体の3分の1を占めているのである。

この理由は、若い世帯では貯蓄を初めてからの年数が少ないこと、そして何よりも住宅ローンの影響であると思われるが、いずれにしろ日本で最も貯蓄をしているのは高齢者であると言えそうだ。

ただ、貯蓄現在高は平均値が2,287万円であるのに対し、中央値は1,542万円である。つまり、一部の高齢者が多額の貯蓄を蓄えているだけで、全体として「日本の高齢者は豊かである」とは言えないのである。実際、貯蓄が200万円未満の世帯も10%以上存在しており、経済的に困窮している世帯も少なくはない。

高齢者が貯蓄をしていることを悪いと言っているのではない。実際、現在の日本では、それなりに豊かな老後を送りたいと思えば貯蓄に頼るしかない。収入はその多くを年金に頼っており、しかもその額が充分ではないのだから。
しかも老後の資金は「これだけあればまず大丈夫」という金額をあらかじめ見積もっておくのは難しい。何歳まで生きるか、どんな病気にかかるかなど誰にも分からない。そのため、「蓄えはあればあるほどいい」と考え、貯蓄額が増えていくのだろう。

だが、もしも年金額が充分で、医療や介護など社会保障がきちんとしていれば、それほど蓄えておく必要はないはずだ。

蓄えるよりも消費した方が経済は動く。
多額の貯蓄を抱えていて、死亡した時に相続税で取られるよりも、消費して生活を楽しむ方が日本の経済全体から見ても好ましいのではないか。

高齢者が貯蓄をせずとも良い社会が私の理想である。
もちろん今の日本ではそうは言っていられないので蓄えるしかないが、北欧のように福祉制度への安心感があれば、必死に溜め込む必要はなくなる。
年金で生活し、万一の際にはその年金の中で、自宅で介護を受けたり施設へ入所できる。特殊な事情によりそれが難しい方には生活保護で救済する。
現在の生活保護費の額では、老人ホームの個室には入れない。これでは老人ホームは生活の場ではなく収容施設になってしまう可能性がある。しかしこれを避けるためには、保護額をそこまで上げるよりも、やはり年金額を上げるべきではないかと思う。
また老人ホームの個室の費用も、建設コストを見直すことで実はもっと安くできるはずと思っているが、それはまた別の話。

ここまで来るともうそれは資本主義ではなく社会主義ではないのかという気もしないではない。
別に私は社会主義を支持しているわけではない。ただ、資本主義にあっても、大きすぎる格差はやはり是正しなければならないと感じる。
私自身は、このままだと年金では有料老人ホームへ入居するのは厳しい。と言うか無理である。自宅を売却するかリバースモーゲージで補うしかないかなと思っている。
また毎月住宅ローンを払い、期間を短縮するために時々繰り上げ返済もしている中で、貯蓄や投資での資産形成も試みている。多くない給料の中で頑張っている方ではないかと思う。

ただ時々、

「何も考えずにもっとおいしいもの食べに行ったり、旅行したり、買い物したりしてえ!」

と思ってしまうのもまた事実なのである。

と言うか最近、経済とかの話が多くて、ただでさえ数少ないこのブログをご覧になってくださっている方が離れて行ってしまうのではないかと心配していたりする。
やっぱりもっと介護のことを書いた方がいいかな?

生活習慣病としての認知症

私が子供の頃には「花粉症」という言葉はほとんど知られていなかったし、実際に症状に苦しんでいる人も私の周りには一人もいなかった。
花粉症の人がこうまで増えている一番の原因は、スギの花粉の飛散量が昔に比べ増えていることであるのは確かだろう。つまり人の手による植林の結果である。
ただ、スギ花粉症以外のアレルギーも増えてきているように思うので、現代人の生活様式に、何か人体の抵抗力を下げるものがあるのではないかと思わずにはいられない。そうした意味から、花粉症は生活習慣病と捉えられることがあるようだ。

言うまでもなく、生活習慣病とは生活習慣に発症の要因がある疾患の総称である。つまり生活様式が変化すると発症率が上昇、あるいは下降する。
発症率が減った生活習慣病としては、例えば脚気が挙げられそうだ。かつて日本人には脚気が多かったが、これはお米ばかりを食べていたためにビタミンB1が欠乏したことが理由だったようである。
さて、認知症も生活習慣病と言われることがある。
生活習慣病の代表格である糖尿病の方にはアルツハイマー型認知症のリスクが高いことが知られているし、同じく高血圧は糖尿病などと共に脳血管性認知症の危険因子となるので、その延長線で認知症も生活習慣病と言えるだろう。
その他にも、例えば中年以降の運動習慣がアルツハイマー型認知症予防に効果的という研究もある(一例としてこの英文記事を参照)ので、生活習慣はやはり発症要因の一つと言って良さそうだ。

また認知症、特にアルツハイマー型は、花粉症のように昔よりも発生の割合が高くなっているように思える。もちろん高齢者の数そのものが増えており、しかも平均寿命は上がっている。しかも昔なら単に歳のせいだと見過ごされていた症状もあるだろうから、認知症の方が増えるのは当然と言えば当然だが、それを差し引いても、異常な増え方に思える。
(統計的なデータからそう判断したわけではないので、「そう感じてるのはお前だけじゃないのか」と言われれば返す言葉がないのだが、認知症の増加は日本や一部の先進国にのみ見られる現象ではなく、人口が増えていっている国でもそうなのだから、間違ってはいないだろう。)

認知症には、喫煙やストレス、睡眠や食習慣などの要因が絡み合っていると思われる。糖尿病など、その他の生活習慣病予防に良いとされていることを行っていれば、認知症の予防にも効果があるだろう。
(ただし気を付けていれば絶対に発症しないということではない。当然だが念のため。)