アンケート

皆さんの事業所では、利用者さん・ご家族さんに対してのアンケート調査のようなものは行っているだろうか?

普段、入居者さんに対しては日々の生活の中だけでなく、モニタリングの際にいろいろお話を伺っているし、ご家族さんにはご面会時やプランの同意をいただく際などにお話しする機会がある。また毎月請求書と共にお送りしている報告書は一部にコメントを記して返していただいているし、施設内にはご意見箱も設置している。
それでも、やはり直接は言いにくいことがおありのようで、アンケートという形でしか、なかなか聞けないご意見というものがある。

入居者さん・ご家族さんとしては、やはり「お世話になっているのだから」という意識が強い。介護事業所側にしてみれば、そんな遠慮は無用なのでどんどん言って欲しいと思うものだ。

うちの施設でも、2年半前、開所して3年目にアンケート調査を行った。それから時間も経ち、10名以上の入居者さんが新しく入居されている。そこでこの度、再度アンケート調査をしようということになった。

入居者さんに対しては、回答用紙をお渡しして「これに書いたら出してくださいね」というわけにはいかない。職員が直接聴取することとし、ご家族さんに対しては、回答用紙と返信用封筒を請求書に同封して送り返していただこうと思っている。
入居者さんは匿名というわけにはいかないが、ご家族さんは匿名でも構わないとするつもりだ。匿名の方が厳しい意見を書きやすいだろうというのは容易に想像できる。ただ、意見の内容によっては、速やかな対応がしやすいこともあると思うので、一応記名欄も用意しようと思っている。前回もそうした結果、ほとんどの方が名前を書かれていた。

結果は運営推進会議で報告し、また簡潔にまとめたものを請求書に同封してお送りするつもりである。

さて、どういう結果になるか。怖くもあるが楽しみでもある。

DNR

DNR(Do Not Resuscitate)という言葉がある。
医療の分野で使われている言葉で、介護の分野ではどのくらい認知されているものかは知らないが、私は最初に老健に勤めたので、この仕事を初めて間もなく知ることとなった。

直訳すれば「蘇生するな」となる。心停止した後に心肺蘇生を行わないでほしいという患者側からの意思表示であり、主には終末期に、急変した際を想定して予め確認しておくことを指す。そのための「DNRシート」というものが用意されている病院もあるようだ。

心肺蘇生とは、具体的には心臓マッサージ、昇圧剤の使用、気管挿管などである。これらを行うことによって蘇生したとしても、患者は、特に終末期であれば身体への負担は大きく、徒に苦痛を長引かせるだけという考え方もある。また家族にとっても、呼吸が止まった後に心肺蘇生が行われるのを目の当たりにするのは、本人が可哀想でとても見ていられないという気持ちになると聞く。それはそうだろうと思う。

私が最初に努めた老健では、全入所者に対し、万一の際に心肺蘇生を望むかどうかを確認していた。全入所者ということはつまり、終末期に限らないということだ。この仕事を始めたばかりの当時の私は、そういうものなのかと思うだけで、特に疑問は感じなかった。
そして実際それに従って、急変し心停止した際に、心臓マッサージなどを行わずに医師が死亡確認を行ったこともある。

うちの施設でも、看護師が管理者(介護事業部門責任者?)に、DNRについて確認しておくべきではないかと提言したことがあるらしい。
確かに高齢者は、いつ何があるかわからない。その際に、ご本人さんやご本人さんの希望と反したことを行い、その結果としてご本人さんの苦痛や、ご家族さんの悲嘆を強めてしまうことは避けたい。そのためには予め確認しておくしかないのである。

それに対しての、うちの施設の上部の判断は「病院ならともかく、在宅の延長線にある特定施設で、そこまでする必要があるだろうか」というものだったようだ(看護師から聞いた話)。
確かに、ご本人さんやご家族さんに予めそうした話をすることは、死について否応なしに直面させることになり、また事務的な、冷たい印象を与えかねない。それはうちの施設が目指す、入居者さんやご家族さんとの関係性とは違う。そう感じる気持ちも分かる。

ところで、うちの施設では、終末期が近づいたと思われる頃に延命治療についての希望を聞いており、今はそういう方が2名いる。
だが、延命治療についての希望とDNRは違う。そのため、現状では全ての入居者さんに対し、急変したら心肺蘇生を行うこととなる。
その結果、ご家族さんが「積極的な治療は望まないと伝えたはずなのに!」と却って辛い思いをする可能性があるし、また逆に治療は望んではいないのだからと考えて心肺蘇生を行わなければ「見殺しにされた」と思われてしまうかもしれない。

それが訴訟に発展する、ということはほとんどないかもしれない。だから経営上のリスクではないのかもしれないが、最期をいかに迎えるかというのは、ご本人さんにとっても、ご家族さんにとっても大切なことである。
悲しい最期になってしまうことは、我々の仕事で最も辛いことの一つだ。

書面に署名捺印を求めるまではしなくとも、やはり確認しておく方がいいのかもしれない。
だが、この問題については私の中でもはっきりした答がまだ出ていないというのが正直なところだ。

いちばんヘタ

うちの施設の入浴は、一般浴・特浴ともに個浴である。
10人程度のフロアそれぞれで、1日3~4人が、1人当たり30分ほどかけて入浴していただいている。

入浴のペースは、基本的には3日に1度、つまり2日おきだ。ただ施設には個浴でない浴室もあるので、以前個人的に、大浴室で複数名が同時に入浴するのならもっと入浴回数を増やすこともできるが、どちらがいいかと入居者さんに尋ねて回ってみたところ、皆が現在のペースでの個浴を希望された。
さすがに個浴であれば、今以上に1日当たりの入浴者数を増やすのは時間的に難しい。ただ例えば夕方など、やろうと思えば入浴介助ができるはずの時間もある。実際に私は夕方に入っていただいたこともあるが、そこまでの対応が必要なほど、入浴を希望される方はいないというのも現実である。

多くの職員は入浴介助の際、入居者さん1人につき30分ほどを費やしているが、私の場合は20分で足りる。これは決して私は手際がいいのだと自慢しているわけではない。むしろ逆で、30分かけることが許されるのに、慌ただしく短時間で済ませてしまっているのだと反省している。デイサービスでの修羅場を経験しているせいで、どうしても気が急いてしまうのだろうか。

今日、私は何か月かぶりに、とあるフロアの早番に入った。
入浴者を調整する際、普段の私なら午前の1時間で3人入ってもらうようにするところを、「今日は2人だけでも大丈夫。ならば、今日はその2人の方に、ゆったりと入浴を楽しんでもらおう」と考えた。

1人目に、100歳の女性の方に入っていただいた。認知症は全くなく、ADLの自立度も高い方である。
その方の入浴介助をするのは何か月ぶりになるのかも思い出せないくらいで、その方も「○○さん(私の名前)に入れていただくのは初めてですね」と言っていた。それは事実ではないのだが、さすがに覚えてはおられなかったらしい。
もっとも私の方も、その方に対しての細かな介助方法を覚えていなかった。それに時間に余裕もあったので、できることはなるべく自分でしてもらうため、極力こちらから手を出さないように心掛けた。

湯上りに体を拭き終わり、服を着ている最中でその方がぼそりと言った。「いちばんヘタですね」と。
意味はすぐに推測できたので、「ごめんなさい、もっとこちらからお手伝いした方が良かったですか?」と尋ねたところ、「そうじゃありません」と。
その方は、脱衣籠の中から、着替えを包んできた風呂敷を手に取り、言った。
「これだって、皆さん綺麗に畳んでおいてくれます。○○さんより若い男性でもできることが、○○さんにはできないんですね。このうち(施設)でいちばんヘタでした」

つまり介助方法がどうこうではなく、気配りが足りないということだ。
改めて謝罪した。

このブログでも何度か書いているが、私は自分の介護職としての能力は決して高くはなく、良くて中の下ぐらいだろうと思っている。
しかしうちの施設の多くの職員に比べればまだマシだと心のどこかで思っていたのも事実。その傲慢な鼻っ柱を見事にへし折られた。

思えばいろいろと入浴中に指摘されていた。
シャワーチェアーを、多くの方がそうしているように洗い場の中央に置いておいたら、「いつもはもっと湯船に寄せてもらってるんです」と言われた。
背中を流した後で、他の女性の方々と同じように、男性が前の方を洗うのは嫌なのではないかと思い「では前の方をどうぞ」とタオルを渡したら、「もう100歳にもなるので手の力がなくてできませんから全部やってもらっているんです」と言われた(その方の普段の生活を鑑みるに、できないわけはないのだが)。
足をかかとや足の裏、指の間まで丁寧に(特別丁寧にということではない。ごく普通にだ)洗ってさしあげたら、「いつもそんなに洗われていません」と言われた。

そんな個人的な好みに基づいた心配りが、その方の入浴介助に慣れていない私にできるはずはないし、普段「ご奉仕」されるのに慣れ、自分でやるのを面倒がっているだけではないか。それに足をきれいに洗うなど当然のことなのに、それを他の職員がしていないからと言って文句を言われるのは納得いかない。
一瞬そう思ったものの、やはりそれは単なる言い訳である。予め情報を仕入れておくなどの労を怠ったのは事実だし、きちんと尋ねた上で、改めてお願いするなどの方法を採れば良かったのだから。
風呂敷にしても、私は敢えて脱衣籠の中には手を伸ばさないようにしていたわけで、自立支援と気配りの境界線を測り間違えたのだろう。

やはり自分は未熟だなと改めて思った。それに傲慢だった。もっと謙虚であらねば。

夜勤の精神的負担

介護、しかも施設での高齢者の介護と一言で言っても、仕事はどこも同じというわけではない。施設種別の違いなどがあるので、当たり前と言えば当たり前なのだが。

しかし、あまり違いを意識せずに働くことができるのもまた事実。
特にパートタイマーでは、夜勤がなく、日中も正職員の補助的な役割として勤めるなら、どこで勤務してもそれほどの違いはないと言っていいだろう。さらに肉体的にも精神的にも負担はさほど重くはなく、主婦が時給800円を稼ぐ仕事としては決して悪くない。
しかし正職員ではそうはいかない。

最も大きな施設による違いは、身体介護の量と質による職員の身体的負担、そして主に夜間の精神的負担の大きさではないかと思う。
例えば従来型特養では、重度の方が多いことからくる身体介護の量と質によって、職員の身体的負担は大きくなる。さらに夜間は看護師がおらず、また看取りも行っているならば、それだけ精神的負担も大きいだろう。

夜間の精神的負担の問題は、実のところ非常に大きい。これは単に夜間に長時間の勤務につくという事実よりも、万一の事故や急変に対してのものである。
日中は事業所内に勤務しているスタッフも多く、責任者も施設内にいたりするので、万一の際に自分が的確な判断を求められることはそうそうない。医療機関やご家族さんへの連絡も取りやすい。しかし夜間はそうはいかないのだ。利用者さんの状態の変化に敏感であること、そして適切な対応ができることが求められる。
だから例えば、夜間にも看護師がいる老健では、万一の際にはまず看護師を頼ればいいという安心感がどこかにあるので、夜勤のプレッシャーは比較的小さかった。

これに反し、小さな施設では夜勤者の人数が少なく、もちろん看護師もいないので、夜勤のプレッシャーは大きい。身体的負担は比較的小さいので、それで特養や老健と比べてバランスが取れていると言ってしまえばそうなのかもしれないが、いずれにしろこの精神的負担の部分を給与などに反映させることはできないものかと考えてしまう。夜勤手当など超過手当分にしかならないのだから、職員ができれば夜勤などしたくないと思って当然である。

それにしても、いざ自分が夜勤中にそうした場面に出くわすと、なかなか即座の判断はできないものである。
以前の職場では、深夜に電話がかかってくることがよくあったが、それなりにてきぱきと指示を出していたつもりだ。しかし自分が現場にいるのと、離れたところで連絡を受けているのとでは大違い。

そんなことを昨日の夜勤で、事故と急変を一日の中で同時に目の当たりにして考えた。

I love you

認知症のご主人を介護している教授の書いた本についての英文記事(http://www.huffingtonpost.com/mobileweb/marie-marley/dementia-brings-out-words_b_2657313.html)を読んで考えたこと。

高齢者は子供と動物が大好きである。
例えば幼稚園児の訪問の際には皆普段は見せないような笑顔になるし、アニマルセラピーも然り。DVDを鑑賞する機会にしても、子供ものというのは例そのものが思い浮かばないが、動物ものは総じて受けが良い。

上記の記事を読む限り、これは日本人だけに見られることではないらしい。人類共通なのだ。

およそ群れで生活する生物は、本能的に、己よりも弱い者に愛情を持つのだろう。弱い者とは、ほとんどの場合、子供である。生物はすべからく老いて死ぬものである以上、子供を大切にしなければ、その群れに未来はない。その本能によって、群れ、そして種全体で子供を守り、種を存続させてきたのだ。

人間では、年を取ると、己より弱い者は子供(しかも年齢が若ければ若いほど)と、そして動物くらいになるのだろう。だから子供や動物が大好きなのではないか。そうした高齢者の心理も、我々はしっかりと知っていなければならない。

ところで、この記事はオチがまた素晴らしく味があり、考えさせられる。ここで私がそれを書いてしまうのも気が引けるのだが、認知症のご主人が、妻に30年間口にしていなかった「愛してるよ」という言葉を口にするのである。

ただこれだけを以って、「認知症になるのは悪いことばかりではない」などと軽々しくは言えない。ご本人さんもご家族さんも、共に感じる苦悩は大きい。
しかし、それでも、たぶん、愛は消えないのである。