ネットコミュニケーションの歴史(その2)

昨日のエントリの続き。

こうして振り返ってみて思うのは、ネットでのコミュニケーションサービスは、交流のツールとしては留まることなくその形を変えているもののやっていることは大して変わらない。Q&Aとしての役割は大きくなる一方。そして議論のためのツールとしては全く訳に立たない。こういうことだ。

ネットでは議論の体を示してくると、その話題はほぼ確実に罵り合いになって終わる。これはパソコン通信の時代から全く変わらない。そしてこの傾向は、交流の薄い場所ほど顕著である。

世の中には知識をひけらかすことや議論が大好きな人は少なくない。が、常に冷静さを保てる者はほとんどおらず、たやすく激昂する。
そうした人間がネットを利用するのは主に現実への不満からであり、例えば己が不遇をかこっていると感じているがゆえに、その原因を他人に転嫁し、同好の士や同業者を見下して懸命に己の虚栄心を満たそうとしたりする。

ネット上で喧嘩をしている者のタイプは簡単に説明できる。
エントリ「文系と理系」で書いた「理性に優れるタイプ」であり、エントリ「曖昧なものが苦手な人々」で書いたような人だ。
ほぼ同じことの繰り返しになるが、以下に記す。

言語化し論理的に説明できないことは、理解できず、かつ理解に値しないことだと思っているため、曖昧な概念を排斥したがり、相手の言葉尻を捉える。
情報には「ソース」を、方法論には「エビデンス」を求める。
自らの行えるアプローチが、専門的な知識・技術に基づいたものに限るため、それらに劣る他人に向ける目は厳しい。

これだけなら議論の支障とはならないはずなのだが、こうした人々は、決して他人の意見を受け容れようとしないのである。お互いにそうなのだから、綺麗に収まるはずがない。

パソコン通信の時代から、こういう人をネット上で何人見てきたことか。
子供の喧嘩でよくある「何年何月何日何時何分何秒?」と全く変わらないことを得意げに言う人々を。

私の当初のネット利用は趣味に限定されていたので、パソコン通信やインターネットの創成期に、同好の士と知り合うことでとても楽しい交流ができた。オフ会に参加したこともある。
しかしそれでも、自分が参加している以外の場所では、目を覆いたくなるような罵り合いを何度も目にした。そのため、私自身が議論のようなものに加わったことはただの一度もない。決して意味のあるものにはならないとわかっていることに、無駄な労力をかける気にはならないから。
20代初めに、私はこんなことを考えてネットでの議論を放棄した。

もちろん、ネットの議論だって、やりとりの過程で参加者や傍観者が何か後に繋がるものを得ることはあるだろう。しかしそれ以上に不快な気分になることで、マイナスの影響を受ける人の方が多いように思う。

介護業界の従事者であっても、もちろん同じだ。福祉の仕事をしているからといって、人間性はその他の人々と何も変わらない。交流は生まれるが、議論は成立しない。

議論が成立するような場所があるといいのに。
次のネットコミュニケーションの進化の鍵はそこにあると思う。

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