ベータアミロイドとアルツハイマー型認知症

ネットを見ていて、ちょっと驚いた。

とある介護業界の方(私の意図はその方を批判することではなく、単にびっくりしたという話なので、名は伏せさせていただく)が、アルツハイマー型認知症について以下のようなことを書かれていた。

曰く、「アルツハイマー型認知症はベータアミロイドが蓄積して脳神経を圧迫、血流が阻害されて脳細胞が壊死し、脳が萎縮することが原因であるというのが定説」。

ベータアミロイドの蓄積は、血流を阻害するのではなく、神経細胞にタウ蛋白を集積させることで神経細胞を壊死させる、という経過を辿るのだと思っていたが、そんな瑣末なことはどうでもいい。
あれっと思ったのは、「脳が萎縮することが原因」という部分である。もしこういうことなら、アルツハイマー型認知症の診断は簡単である。MRIで診てみればそれで一目瞭然。

しかし実際には、認知症の方の頭部CTやMRIでは、萎縮が見られないことが多い(一例)。そのために問診やテスト(HDS-Rなど)も組み合わせて診断が行われるわけだ。
アルツハイマー型認知症の方でも脳の萎縮が見られない方がいることは、利用者さんの診療情報に触れていれば、普通に情報として入ってくるはずである。私は、この方がそうした情報に接したことがない、ということに驚いたのだ。介護保険施行前から施設に勤めている方が。

またこの方は、「認知症予防法とされているものに、ベータアミロイドの沈着を防ぐ効果がないのであれば、それを予防法と呼ぶのはいかがなものだろうか」といった疑問も呈しておられた。
しかし、ベータアミロイドがアルツハイマー型認知症の唯一の発症因子ではあるまい。でなければ、例えば学習療法による前頭前野の活性化(もしくは1対1のコミュニケーション)がもたらす効果や、アリセプトの効用だって否定されてしまう。それらは脳神経細胞の活性化をもたらしていると考えられるが、その効果は発症後に限られ、発症前には何の予防にもならないというのだろうか?
脳の神経細胞を活性化することは、充分に認知症の予防となるのではないか。

ベータアミロイドは健康な人の脳でも生成され分解されているが、その蓄積という現象は、アルツハイマー型認知症患者の脳だけでなく健康な人の脳にも見られることがあり、またアルツハイマー型認知症を発症する少なくとも数年前から(ひょっとしたら10年も20年も前から)蓄積が始まっていると言われている。
(ここでは適当なソースを示すことはしないが、ハーバード大学のランディ・バックナー教授らがこうした研究を行っているので、興味のある方は調べてみてください。)

であれば、脳内にベータアミロイドが蓄積していくということは、さほど異常なことではなく、意外に多くの人の脳の中で自然に起こっていることなのかもしれない。認知症を発症する前に、身体の他の部分が病に侵されたり衰弱したりして命を落とす方も多くいるというだけで。
認知症の方は、体よりも脳が相対的に早く老化した方というだけなのかもしれない。

これまでは、生前に脳細胞を採取して検査を行うわけにはいかないので、実際にベータアミロイドが蓄積しているかどうかを確かめるには死後の解剖を待たねばならなかった。それ故アルツハイマー型認知症の定義を「ベータアミロイドの蓄積により脳の神経細胞が壊死する病気」などと定めると、生前の診断が不可能となってしまう。そこで問診と画像診断とテストを組み合わせ、症状が「アルツハイマー型認知症」の病像と重なるかどうかが判定されていた。
しかし最近では、PETという画像検査により、生前でもベータアミロイドの蓄積を視覚的に確かめられるようになっている。

今後PETによる画像診断が普通に行われるようになり、その結果、ベータアミロイドの蓄積が認められる状態をアルツハイマー型認知症とする、と再定義されたら、どうなるだろうか。

症状がまだ現れていない潜在的患者が爆発的に発見され、社会は動揺させられるのか?

これまでアルツハイマー型認知症と診断されていたものの、画像ではベータアミロイドの蓄積が見られなかったため、これまでにはなかった全く新しい認知症の診断名が付けられることになる方が多数現れるのか?

また、認知症治療に関しては大きな期待が寄せられていることがある。
神経細胞を壊死させるタウ蛋白を分解する薬が開発され、「レンバー」として臨床試験が行われているのだ。
もしもこの薬が期待されている通りの効果をもたらすなら、この薬の普及により、アルツハイマー型認知症はこの世からなくなるだろうか?

以上3つの疑問に対する私の予言(予想と言うほどの根拠はないので(^-^; )は、順にYes, Yes, Noである。

おそらく、認知症はもっとずっと手強い相手である。
だからこそ、我々は認知症ケアを進歩させ続けなければならない。

介護業界の人材不足は深刻だ

介護業界の人材不足(人手不足、ではなく)の問題はこのブログでも何回か触れてきているが。

それは見かけ以上にはるかに深刻である。

「見かけ以上」というのはどういうことかと言うと、

「本当だったら『今日で辞めるか明日から心を入れ替えて働くかどちらかにしろ』と言いたい職員がいても、辞められたら現場が回らなくなったり人員配置基準を満たさなくなってしまうので、厳しく言えない」

という状況がまかり通っているからである。
このため、本来なら勤めているべきではない職員が業界内に少なからずいる。その者たちに一斉に職から離れてもらえば、残された職員は過労で倒れるだろうし、そもそも人員配置基準を満たせなくなるところもあるだろう。

介護職員は、資格や経験があれば新しい職場を見つけるのに大して苦労はしない。どこの事業所も人手(この場合は人材ではなく)が足りていないのだから。であれば、気に入らないことがあれば今の職場を辞めてしまうかもしれない。
そのために厳しく指導することをためらってしまう現場のリーダーを、私は何人も見てきた。

もちろん、この結果最も大きな不利益を蒙るのは利用者さんたちである。質の低い職員のケアを受け続けなければならないのだ。
このところ介護施設での虐待事件の報道をよく目にするが、その背景にはこうした事情が関与しているということはないだろうか? つまり、周囲の人間だってその職員が介護の仕事に向いていないことを知っていたにもかかわらず、辞められると現場が回らなくなったり人員配置基準を満たさなくなったりしてしまうので、任を解くことができずにいた。その結果、不適切なケアが続けられ、挙句の果てに虐待にまでエスカレートしてしまった。というように。

まあ虐待というのは極端な例であり、そこまで至る職員はほんのごく一部だ(と信じている)が、虐待とまではいかなくとも利用者さんたちにとって好ましい状況ではないのは確か。
人材が足りないとこうした事情からもサービスの質が低下していくのである。早く何とかしないと、これから先もどんどん質は落ちていってしまう。

本来であれば、職に就いた時には、まず3カ月程度の試用期間をおき、職員の適性をしっかりと見極める。良ければ非正規職員として採用、3か月程度を目安に契約を更新していき、この者は適性に欠けると思ったら契約を更新しない。そうして周囲から信頼されるようになったところで正規職員とする。こうした手順を取るべきだ。
だがどこも人手が足りず、こうしたステップを踏んでいられない。職員をつなぎとめておくために、急いで正規職員に切り替えたりせざるを得ない。
開設したての施設などもっと極端である。数年程度の経験かヘルパー2級程度の資格でも正規職員とすることで人手を確保しないと事業が始められない。

普通の仕事なら、人手が欲しければ給与を上げ、他所よりも条件を良くして人を集める。人が集まれば生産性も上がるので、人件費の上昇分はそこからカバーされる。
しかし介護の仕事は、どれだけ優秀な職員を雇っても生産性は上がらない。定員と介護報酬が定められているためだ。そのため給与を上げると経営が立ち行かなくなる。

今でさえ人手が明らかに足りていないのに、施設はまだまだ増えている。そういう整備計画を作っている自治体は、その分の職員は地面から生えてくるとでも思っているのだろうか?
この調子だと、適性に欠ける者がどんどん雇用され、質の低いサービスが広がっていくだけだ。

まあ本当にいい職場なら、一人が辞めても替わりはすぐ見つかるはずである。
うちもそうだ……と言えればいいのだがそうでもない。だってうち、給料が安……

あっこれ言っちゃダメだった!☆ウフフ☆オッケー☆バイバーイ☆

事務用品の節約

不要になったプリント済みコピー用紙を、いわゆる「裏紙」として再利用している事業所は多いだろう。

コスト的には、裏紙の再利用はむしろ損であるというのが最近の定説だと思う。
つまり表裏を間違えてセットしてしまい、プリントをミスしてしまうことでのトナー浪費、使えるものと使えないもの(個人情報が記されているなど)の分別やホチキスを外したり表裏を揃えるといったセットの手間、一度使用した用紙を再度コピー機に入れることによる機械へのダメージ等を勘案すると、再使用などせずにさっさと資源回収に出した方が得、というわけだ。あるいは、切ってメモ用紙にするとか。

しかし経営的な視点では損かもしれないが、現場レベルではそうも言っていられないこともあったりする。足りない物品は事務職員の判断でさっさと発注できるところばかりではない。私のかつての職場のように。
そして何より、職員の節約意識はこうしたところから芽生えていくのかな、とも思う。その効果も考えれば決して無意味なことではないのではないか。

介護と事務と言えば忘れてはならないのが(^-^; ボールペンである。
仕事で使うものである以上は事業所で購入するのが当たり前なのだが、私がこれまで勤めた3つの法人、その中の全ての事業所で、職員が自身で用意していた。
これについてはやむを得ないと思う。介護の現場では、ボールペンは買っても買ってもすぐに紛失してしまうのだ!
管理者が「もっと物を大事にしろ」などと言っても全く効果なし。これでは、管理者がブチ切れて「もう自分たちで買え!」となるのも致し方ないだろう。

そこでうちの施設では、たぶん相談員……おっと今は管理者だ……のアイデアで、全職員にテプラで名前を貼ったボールペンを1人1本支給し、「これをなくしたら自分で買え。ただしインクがなくなったら替え芯はいくらでもやる」とアナウンスしたところ、皆ボールペンをなくさなくなったようだ。時々替え芯をもらいに事務室にやって来る。
予想以上に上手くいっているようだ。

ケアマネの能力評価って

本日、厚生労働省により「介護支援専門員(ケアマネジャー)の資質向上と今後のあり方に関する検討会」が開かれた。
(参考記事:ケアマネの在り方検討会 研修や資格など見直し(1) (2)

「ケアマネジャーの能力を評価する手法の確立を求める意見が出た」そうである。
大いに結構!

だが。
評価すると口で言うのは簡単だが、さてどうやってそれを行う?

これまでの「ケアプラン点検」のようなこと?

しかしあれは(まあ私は直接受けたことはないので伝聞ではあるが)、ケアプランの帳票に本来書かれるべきことが書かれているかどうか、そしてケアマネジメントのプロセスがきちんと行われているかの確認である。ケアプランの質の評価以前の問題だ。

介護支援専門員はケアプランを作るための資格である(もちろんケアプラン作成が業務の全てではないが、ケアプランを作れるのは介護支援専門員だけなのだから)。にもかかわらず、資格取得の過程で、きちんとケアプランが作れる能力があるかどうかは確認されない。試験によって基本的な知識があるかどうかを確かめたら、あとは研修を受講しさえすればそれで資格が取得できる。
そのため、きちんとしたケアプランが書けないケアマネが多数誕生し、それをケアプラン点検によって再指導しなければならなくなった。そう私は理解している。

作成されたプランから、援助内容がそうなった理由、目標を設定した理由、ニーズを導き出した理由……と逆に辿って行って検証することは可能。ケアプラン点検もそれを行っている。しかし、本当にケアプランを評価しようと思ったら、評価者がアセスメントの段階から被検証者であるケアマネの行った支援を追体験しなければ無理である。そうしないと、現に行われている援助の正当性を検証することはできたとしても、必要な援助が抜け落ちていないかの確認はできない。
エントリ「ソーシャルワーカーとケアマネジメント」などで何回か触れた気がするが、ケアマネジメントの本質はソーシャルワークである。ソーシャルワークの場合、ワーカーの行った援助を客観的に評価できるのはスーパーバイザーのみ。それはそうだ。ソーシャルワークの良し悪しを一律に計る物差しを作ることなどできるわけがないのだから。

これまでのケアプランチェックのような機能を期待するなら、何のことはない、ケアマネの資格取得の過程でモデルケースに対するプランを作らせ、それを審査官が判定すればいいのだ。それで合格した者にのみ資格を与えれば、少なくとも行政が望む能力は保証される。
しかしそうでないなら……私には評価する方法など思いつかない。

さて。どのように評価するというのか。しばらく注視してみたいと思う。

いっしょがいいね

第一三共が、認知症治療についてのCMをTVで流している。
樹木希林が出演しているものと言えば、あーあれね、と思い当たる方も多いだろう。

そのCMは、下記の公式サイトでも観ることができる。

いっしょがいいね.com
http://www.isshogaiine.com/index.html

これについてTwitterで、私がフォローしているある方が「認知症はああいうものじゃないという呟きをよく見る」というツイートをされていたので、Twitter内で検索してみた。

なるほど。
樹木希林の演技力を賞賛する人、また演技力があるがゆえに見ていていたたまれないという人。微笑ましいという人。認知症であればすぐに忘れてしまうので「もう一回」と言うのはおかしいと言う人。
様々な反応があった。

見て好ましいと感じる人は、大きく2つに分かれると思う。
現代社会では誰もが無関係ではいられない認知症という病気を、心のどこかではまだ他人事と思っている人。もしくはそれとは全く逆に、現実として既に受け入れることができている人。

切ないとか不快感を覚える人は、よく知らないがゆえに、認知症に対して恐怖を感じている人。
「『もう一回』と言うのは現実を理解し直前の行動を覚えているから言えるのであって、本当に認知症ならそんなことを言うのはおかしい」とか言う人もこちらに入る。

「よく知らない」というのは、身近に認知症になった方が全くいない、という意味ではない。中には介護に尽力された方もいらっしゃるだろう。そういう方に対して、「何も知らないで」などと言うつもりは全くない。
そうした方がこのCMを観て心を乱されるのは、「自分は認知症に対して適切な対応ができなかったのではないか」と罪悪感を感じさせるためであって、それはそう感じる人個人だけの責任とは限らない。どんな人であっても、認知症の方を一人ないし数人で支えるのは難しい。家族、親戚、近所の方、医療従事者、ケアマネ、介護従事者……これら全ての役割が絶対に必要というわけではないが、少なくとも数だけは多くの人々の協力があってこそ、認知症の方は笑顔で過ごすことができることが多い。
認知症の方と、このCMのように過ごせなかったとしても、それは誰の責任でもなく単に不運だったということだってあるだろう。

私も認知症ケアの専門家というわけではないし、大して偉そうに言えるほどの知識はないのだが、これまでに400~500人くらいの認知症の方とお会いしてきた(少なくとも一日以上は触れ合ってきた)程度の経験からは、あの「もう一回」は至極自然に見える。
例えば認知症の方と一緒に歌をうたっていて、1曲終った直後に、それまで自分たちが何をうたっていたかを忘れ、歌集を見て「次はこの歌にしましょうよ」と同じ歌をうたおうとされる方も確かにいる。しかし、しっかりと覚えている上で、「もう一回うたいましょう」と言われることだってある。

このCMはリアルだ。認知症の方の予想外の発言に対し、一瞬戸惑うお嫁さん、いいじゃないと努めて明るく言う孫、積極的に前に出てこない息子。彼らの態度は認知症のケアをする人として完璧ではないかもしれないが、皆が皆、常にベストな対応をしていかなければならないわけでもない。そこでちょっと笑って受け容れてあげるだけで、認知症の方も周りの人々も楽しくなれる。
認知症は、決して絶望的な病気ではない。
それを巧く表現していると思う。

エントリ「こだまでしょうか いいえ、誰でも」でも書いたが、認知症の方は自分が置かれている状況が分かりにくくなっているが故に不安を覚える。そうした時に一番安心できるのは、周囲の人々の笑顔である。自分が少なくとも拒絶されてはいないんだ、と感じること。
それだけでも、認知症の方の行動は全然違ってくるものだ。

ということで私はこのCM、いいと思う。
もちろんCMの目的は、メマリー(新しい認知症治療薬)を売ることなんだろうが(^-^; こうしたメディアを通じてこそ認知症の知識が大きく広がっていくのは確かだし、それは歓迎すべきことだ。