カラオケ購入

うちの施設も、カラオケの機材を購入した。

DAMである。
何でも本社のつてで、格安もしくはほとんどタダで入れられたようだ。

これまでも一応カラオケはあったにはあったのだが、8トラック(若い方は知らないだろうなあ)の、一体どこの温泉旅館の払い下げ品ですかという代物で、曲も70年代演歌しかなく、実用的とは言いかねる代物だったため全く使っていなかった。

カラオケが好きな方というのはどこにでもいるもので。
さっそく1つのフロアでやってみたところ、お一人の方がマイクを手放さずに歌い続けられていたらしい。その外の方々は、遠慮してマイクを握ろうとはされなかった。

前の職場でもそうだったのだが、カラオケは積極的な方は大いに喜ばれる。だが、マイクを持って一人で歌うのは恥ずかしい、という方のほうが多いのだ。そのため、順にマイクを回して好きな歌を一曲ずつ歌っていく、という形は成立しない。
結局どなたも希望されずに職員がマイクを持って歌わざるを得なくなる、という光景を何度も目にしてきた。

だから私はカラオケよりも、ギターの伴奏で皆で歌うほうが好きで、よくやっていた。
皆に歌集を配って、誰もマイクなど使わずに歌うと、その輪に加わっている多くの方が大きな声で歌ってくださる。皆で一緒に楽しめる。
とは言うものの、これは誰でもできることではないし、カラオケの機材があると何かと便利なのは確か。

しかも、今はまだ使えないが、今後のバージョンアップで、音楽にあわせた体操もできるようになるそうな。つまり、「北国の春」など馴染み深い曲に合わせた体操が画面に映り、皆でそれを見ながら体を動かすと。
これはなかなか良さそうだ。運動は認知症予防に効果があると言われているし(例えばこの記事)、活用していければと思っている。

認知症ケアの現在

先日、エントリ「やさしい嘘」へいただいたコメントへの返信として、私はこう書いた。

認知症ケアの理論は日々進歩していますが、現場の環境は全く変わらないので、職員は両者の間で押し潰されそうになっていますよね……
現在の介護の現場では、認知症の中核症状だけの方も、周辺症状が出ている方も、さらには精神疾患の方も、皆一緒くたに「認知症」と呼ばれ、同じケアを受けていることも問題だと思います。
それぞれ、必要とされているものが違っているのに。

中核症状だけの方が最も必要としているのは、できることを続け、できないことを手伝ってもらうこと。
周辺症状が出ている方が最も必要としているのは、認知症により失ってしまった温かい人間関係。
精神症状のある方が最も必要としているのは、医療。

現在はこれらの方々が皆「認知症」と一括りにされて、同じケアを受けている。

その結果、精神科病棟や認知症対応療養型に、精神症状のない認知症の方が入って、できることを取り上げられたり、人間関係がますます希薄化してしまった結果、却って状態が悪化し入院が長期化する。
病院が満床で入院することのできない精神症状のある方は、やむなく介護保険施設やグループホームに入所したり、サービス提供を断られて入所することもできず、いくつもの事業所を転々としている。

それらに勤める職員も、本来求められている目的と異なった支援を行うことを強いられ、疲弊している。

中核症状だけの方は在宅でサービスを使うかグループホーム、周辺症状が出ている方は老健の認知症専門棟、精神症状のある方は精神科病棟や療養型、というように分かれ、それぞれに合ったケアを受けるべきではないか。

そして、精神科病棟で精神症状が軽減したら、療養型や老健へ移る。
老健は周辺症状を軽減させ、在宅復帰やグループホームへの入居を支援。
グループホームや居宅サービスは、認知症の進行を少しでも遅らせるような支援をしつつ、生活の質を高める。

そのために必要なのは、正しい認知症の診断と、その方に合った適切なサービスの紹介である。
物忘れ外来や地域包括支援センターなど、そうした役割を担えるようになっていくといいなと思う。

記録していいのは事実だけ?

研修にて。
ワークグループで、私が「うちの施設の記録は、みんな職員や入居者さんが言ったこととかは詳しく書いてくれるんですけど、アセスメント的なことはなかなかねー……」みたいなこと言ったら、周りの人たちに「いや、記録に書いていいのは事実、つまり実際にあったことだけですよ」と言われた。

私が、「看護記録のいわゆるSOAPだって、Aつまりアセスメント書いてますよね?」と言ったら、「その場合は、記録用紙の記載欄を分けて、『ここは事実だけ、ここはそれ以外』って分けないと」とのこと。

それはあなたの会社のルールでは? と思ったが、そのことで議論している時間もなく、話はそれきりに。

もちろん、「事実だけを書け」という言葉は間違ってはいない。ただ、これは「実際にあったことだけを書け」という意味ではなく、「主観を客観のように書いてはならない」という意味だと思っている。

一例。
「今日は一日中機嫌が悪く、15時のお茶の後もすぐに居室に戻ってしまい、その後でトランプに誘っても出て来なかった」
という記録文があったとする。

「一日中機嫌が悪い」というのは、正確には、「記録者が今日会った時には、その人は常に不機嫌そうに見えた」だけであって、他の職員の目にはそうは映っていなかったかもしれないし、その方はその職員に対してだけ怒っていたのかもしれない。つまり記録者の主観なのだ。
また後半も、実際にあったことを書いてはいるが、これだけだと断られた理由が全く分からない。

これが、
「15時のお茶が済むとすぐに居室に戻る。15:30に『〇〇さんがトランプのお相手を探しているんですが、どうです、一緒にやりませんか?』と声をかけたが、『今日はやめとくよ』と言われてしまった。朝から口調がぶっきらぼうだったこともあるし、昨日、〇〇さんに俳句の季語について批判されたことを気にしているのかもしれない」
だったらどうだろうか。

「ぶっきらぼう」という表現は、記録者の主観的な表現ではなく、客観的な描写とみなして良いだろう。
また、「批判されたことを気にしているのかもしれない」は、あくまで記録者の推測であって、実際に起こったことではない。しかし、それはそれと分かるように書かれているし、この記述は推測にすぎないのだから書かない方が良い、と言えるだろうか?
推測は推測と分かるように書いてさえいれば、「記録者がそう推測したという『事実』」とみなし得るのではないか?

というのが私の考え方なわけだが。
もし法令で「記録とはこういうものです」ときちんと定められているなら当然それに従うが、私の知る限りでは存在しない。であれば、記録の本来の目的(サービス提供の証明、情報の共有等)を考えて、そのために役立つものにしたい。

想像するに、記録は実際にあったことしか書いてはいけないと思っている人は、例えば法人内の別事業所などでの実地指導の際に、「主観と客観を曖昧に書かないように」などと指導され、それを(おそらくは)誤解して、とにかく主観は排除しなければならないと考え、それを社内での統一事項としたのではないだろうか。

本末転倒はバカバカしいと思うわけです。何事も。

報酬改定

1/25の介護給付費分科会資料(介護報酬改定の諮問)にようやく目を通した。

まあ別にびっくりするような内容ではないけど、こうやってきちんと単位数が出てくると、そりゃみんな嘆くよなあ……

訪問介護については、生活援助は切りたくてしょうがないんだろうなと。これからは介護保険外でやってくしかないってことなんだろうね。

デイはレスパイトケアなんて言ってるけど、要はいわゆるお泊まりデイを推進していきたいのかな。普通の通いだけのデイはもろマイナス改定。「今や、泊まりをやらないところはデイに非ず」ってくらいの強い意図を感じる。
生活相談員の配置基準はどう変わったのか文章の意味がわからん。<恥?

国は今後少しずつ施設の役割を介護保険施設からサービス付き高齢者住宅へずらしていって、利用者負担分を増やして保険給付分を減らそうとしてるよう。
実際今回の改定は、定期巡回・随時対応を併設すれば高齢者住宅は格段にやりやすくなる。
経営母体が病院や医院だったらなお好都合。

定期巡回・随時対応はずっと前から思ってるのだが、なり手がいないんじゃないのか? 今までは施設で勤めてた若い子とかが流れてこないと無理だろこれ。
あと事業者としても、あんまり旨みを感じない。よっぽど狭い地域の中でやれるならともかくね。

ところで特定施設はというと、基本報酬はもちろんマイナス。
まあ看取り介護加算ができたのは、うちみたいに頑張って看取りやってるところには有難い……と言うか、ないよりはましなので、もらえるものはもらいましょうという感じか。

それにしてもケアマネへの風当たり強い。
次回は居宅ケアマネの権限はさらに縮小、施設へのケアマネ配置基準もなくなるかな。まあ介護支援専門員資格に限らず、資格で仕事をしてきているつもりはないので、それもまたしょうがないのかなとも思ったり。
日本から高齢者介護と、それにまつわる連絡調整の仕事が消滅しない限り、私はこの世界で生きていきます。ずっと。

……たぶんね(^-^;;

ブログ毎日更新終了

1/25、ついにブログの更新落とした。
連続更新は217日で止まった。

今日一日で、だいぶ元に戻ってきた。
でもなんの答もないままに、風化させちゃいけないんだと思う。

1/25の分科会資料が読める程度には仕事のことを考えられるようになってきた。
いずれにしろ、見届ける責任があるしね。

とりあえず、明日からはこれまで通りに更新します。