嫉妬と憧れ

今日のエントリは、自分自身を振り返って考えたことで、他人を批評する意図で書くわけではないことを、まず断っておく。

介護の現場では、「優しさ」とか「思いやり」とか「心配り」などと呼ばれる、非常に曖昧な概念が大事だと言われる。そして、それは正しい。
だが、そうした能力は言わば天性のものでもある。遺伝が全てではなく、成長の過程で身につく部分も多いだろうが、いずれにしても職に就く年齢になってから努力したところで、そうそう得られるものではない。

そして。介護従事者が、自分はその能力に劣ることに気づいてしまったら。
そのことを受け入れつつも自分に合った役割とは何かを考えるか、あるいは自分にも可能な別のことに拘るか、いずれかしかない。

その「別のこと」として選ばれるのが、接遇なのだ。これなら、心がけ次第で何とかなる。
こうして、曖昧なことが苦手な者(エントリ「文系と理系」で述べている、理性に優れるタイプ)は、接遇にやかましくなり、周囲の職員の言葉遣いや態度に過敏に反応するようになる。

これは、くだけた言葉遣いで高齢者の心をつかむ才能に恵まれた者への嫉妬でもある。

そしてその一方で、「相手の立場に自分の身を置いてみることが大切だ」とか、本当にそう感じることのできる多くの職員には、今さら何? と思えるようなことを声高に言ってみたりする。
自分が持っていないものへの憧れとして。

私は今の職場に入った時には、接遇をもうちょっとちゃんとしろよと感じた。
入職時の経営者との面接で、うちは接遇がまだまだだからお前が指導していけ、と言われたように思っていたことも大きな理由だが、私の側にこうした事情があったことも確かだ。
だが今では、ある程度の礼儀をわきまえていれば、少しくらい言葉が崩れるのは構わないのではないかと思っている。何より、言葉遣いをやかましく窘めることで、「優しい」職員の温かみのある態度をぎこちないものにしてしまうのはこちらも切ない。

当たり前だが、利用者さんを「~~ちゃん」と呼ぶとか、上司やご家族さんの前だと口調を変えるとかは論外。そんなのは接遇以前の問題。人としてダメ。

私が今考えているのは、エントリ「マイクロケア?」で考えたように、介護における曖昧な部分を誰でも身に付けられる技術とすることだ。

さて。
今日はクリスマスイヴ。このブログのアクセス数も激減している(^-^; 大いに結構。

みんなが楽しい夜を過ごせますように。
たとえ1人でも、夜勤に入ってても、何か1つでもいいことがありますように。

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