周辺症状は対人関係の障害から現れる

エントリ「タクティールケアと対人関係論」でも少し触れたが、認知症の周辺症状について改めて考えてみる。

まず、認知症の中核症状と周辺症状について整理しておこう。
最近は、周辺症状と言うよりもBPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)すなわち「(認知症の)行動・心理症状」と言われることが多いようだが、両者を特に区別する必要はないと思うので、ここでは周辺症状と呼ぶ。

中核症状とは、純粋に脳の器質的障害から起こるものだ。記憶・見当識・判断・実行障害などを指す。
これらは、脳にその機能を司る部位があり、そこが萎縮したり、脳血管障害によって脳神経組織が破壊されることによって起こる。認知症の方には広く見られるものである。

周辺症状とは、中核症状に人格や環境といった二次的要因が加わることで出現するもの。
具体的にあげられる症状としては、妄想、せん妄、徘徊、昼夜逆転、異食、不潔行為などがあるが……これらの中には、個人的には周辺症状に分類するのは誤っていると思うものもいくつかある。
例えば、異食や不潔行為は脳の器質的障害が進行することによって、「食べ物とは」「排泄物とは」といった本能的概念そのものが崩壊し、習慣さえ失われた時に出現するものであり、そこに二次的要因は加わっていないとみなし得るのであるから、周辺症状とは言えないのではないか。これらを周辺症状とするのは、周囲の人間にとって比較的無害な陰性症状を中核症状、逆に対応に苦慮する陽性症状、いわゆる「問題行動」を周辺症状とみなしたい者が無意識に犯す錯誤に過ぎないと思う。
ここで一つ断っておく。周辺症状には、脱水や便秘、また音や光などの物理的刺激によって引き起こされるものもあり、これらを周辺症状に分類するのはもちろん間違っているとまでは思わないが、他の症状に比べ急性的であるので、ここでは除外する。

となると、慢性的な周辺症状の多くは、心因的なものと言えるだろう。つまり、「周辺症状は認知症の方に現れる神経症の症状である」のだ。
神経症というのは、最近の精神医学では放棄された病名であるが、統合失調症や躁うつ病といった精神病とは異なる、心因性の疾患全般を指す。よって周辺症状が神経症の症状だと言っても、それは言い方を変えただけで、特に何も現してはいない。しかしここに、「神経症は対人関係の障害が原因である」という仮説を導入したらどうだろうか。少しは新しい視点となり得るのではないか。

前掲した過去のエントリでも書いたが、対人関係論の視点に立つと、神経症は幼少期の親子関係、友人関係の失敗と重要な関係がある。対人関係の障害が神経症の原因となるのだ。

ここで対人関係というのは、実際の生活においての関係の良し悪し、内容だけに留まらない。
むしろ、他人に何を期待していて何をしてあげたいか、他人をどう見ていて自分をどう見せたいかなど、自分の中の他人のイメージと自我との関係である。そのため、一見したところ良好な家族関係、職場関係、友人関係が築けていても、それは表面的なものに過ぎず、承認欲求・親和欲求が満たされていないという事態は当然ありうることである。
例えば。私が、3人のメンバーからなる小集団に属しているとする。私以外の2名が、「3人の人間関係は上手くいっている」と考えていて、周囲の人々もそう感じているとしても、私が「他の2人は私を認めていない」と感じていれば、私にとっては、その集団内の人間関係は決して良好ではないのだ。

人は一人では生きていけない。この言葉は、一人では何もできずに死んでしまう、という意味では正しくない。現に、現代の日本人にだって、無人島で自給自足に近い生活をされている方がいるではないか。そうではなく、社会の中では誰とも接触せずに、また他人を意識せずに生きていくことはできない、そういう意味に捉えるならば正しいと言える。

認知症の方は、その中核症状のために、自分の置かれている状況への理解も困難である上、他者とのコミュニケーションも充分にできない。しかし叱責された時など、相手の感情を感じ取ることはできるので、悲しさ、悔しさ、怒り、孤独感などが蓄積する。それが噴出したものが周辺症状なのである。
記憶力が低下しているのに感情の記憶は蓄積するというのは矛盾しているだろうか? しかし介護職員であれば、これは経験則として実感しているのではないかと思う。それに若い人であっても、感情を伴った記憶の方が保持されやすいことは事実なのだから、それほど奇異なことではないだろう。

周辺症状への対応として重要なのは、「原因となる対人関係の障害とは現実の人間関係に限らないが、逆に現実の人間関係を充実させることができれば、症状を軽快させ得るのではないか」ということだ。
と言っても、認知機能の低下した方に、良好な人間関係を築いてもらい、承認欲求・親和欲求を満たしてもらうのは簡単ではない。言葉ではそれが叶わず、タクティールケアなどのスキンシップが有効なこともあるだろう。長時間傍らに付き添ってあげたり、常に笑顔を向けていなければならないこともあるだろう。
また必要な援助量も、その方によって様々だ。周囲の人間の膨大な努力を必要とすることだってあるかもしれない。

私のこの考えが絶対的に正しいものであるとはもちろん思わない。欠陥も多いだろう。
しかし、認知症ケアが「寄り添う」ことを重視している意味を理論として確立し、現場の介護従事者たちが共有していかなければならない時期を、現在の我が国は迎えていると思う。
でなければグループホームもユニットケアも何も生み出さないし、制度全体がおかしな方向に曲がっていくのではないか。

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