ヒステリーと自己実現

最近、腰、右股関節、右大腿部の痛みを訴える女性の入居者さんがいる。
痛いという部位はその時々でちょっとずつ変わる。

先日、私が夜勤をしているとき。ナースコールがあり訪室すると、ベッド上で痛みのため身悶えしていた。どうしました? と聞くと、トイレに行きたいが右足が痛くて行けない、と言う。介助しようと手を出すと、ちょっと右足が動いただけで悲鳴を上げる。その痛がりようは尋常ではないので、とてもトイレに行けるとは思えず、オムツを当てさせてもらった。
普段は、ADLはほぼ自立、移動もシルバーカー使用で、夜間も一人でトイレに行けている方である。

次の日の日中は、痛いとは言いながらも介助、車椅子使用でトイレに行けたようだ。そのさらに翌日、総合病院の整形外科を受診した。レントゲン撮影の結果、骨には異常なし。MRIは振戦のため無理といわれたらしい(パーキンソン病の方なので)。痛み止めを飲んで経過観察、となった。

そして数日前。その日もずっと痛がっていて、移動・移乗を介助しており、食事も自室に運んでいたが、自室で一人で歩いていて、しりもちをつくように転倒された。

歩けるのかよ!

もともと疑わしいところはあった。仲の良い方が訪室すると痛みなど忘れたように笑いながら話していたり、介護職員がドアの隙間からそっと窺ったらベッド上で静かにしていたのに、ドアを開けた途端、痛いと身をよじり始めたなど……
嘘をついているとは言わないまでも、大げさに騒いでいるところはありそうだ。

だが、そんなことをして何の得がある?

その方は、普段は明るく、職員と冗談を言い合って笑ったり、一緒に折り紙や編み物をしたり、事務室にやってきておしゃべりしたり、写真を撮ったり……と、職員とのかかわりは多い。
性格は、自己中心と自己卑下の両極端の間を振り子のように大きく行ったり来たりしている。自分勝手が目に余ってくると、私や管理者、相談員がぴしゃりと言うこともある。さすがに一般の職員は入居者さんを諭すことには抵抗があるようだが、我々はそんなに甘くないのだ(-_-)
すると号泣して、死にたいなどと言い、しばらくするとしおれた顔でやってきて、ごめんなさいと謝られる。それを何度も繰り返している。

また、本当は家に帰りたいと思っている。いくら楽しそうにしていても、心の底では施設生活を受け入れていない。
ADLはほぼ自立しているのだから、家にいても介護の手など全くかからない。入居に至っている原因はその性格。食事も、まずいだの硬いだの平気で言うし、偏食も激しい。お嫁さんの気持ちはよーく分かる。

その性格さえ直せばすぐに家に帰れるんだよ!
……と言いたいところだが、言えるわけもない。言ったところで、今更性格が直せるわけもないしね。

痛みは「かまって欲しい」と職員に向けて発せられたもの?
痛みに苦しんだからと言って家に帰れるわけもない。
お嫁さんにもっとかかわって欲しいと思っているのだろうか? 痛みに苦しんでいれば心配して来るかも、受診となれば付き添ってくれるかも、と。

まるで19世紀後半のヒステリー患者みたいだ。

ヒステリーは詐病と言われた時期がある。
例えば、激痛のため右手が全く動かせないという患者がいたとする。その患者に向かって、突然花瓶を放り投げると、慌てた患者はそれを両手で受け止めたりするのだ。以上、痛くて動かせないと言うのは嘘であるという証明終わり、である。

現代ではヒステリーという病名はない。と言って、それに代わる適切な病名はたぶんない。心因性の症状、ということははっきりしているにせよ、神経痛などと言われてしまうのではないか。(ヒステリーの主症状は痛みというわけではなく、現れ方は様々なので、それに応じて病名も変わるだろう。)

これはこの方に限ったことではなく、高齢者の痛みの訴えには、こうしたものがしばしば見られる。もちろんご本人は本当に痛みを感じているのだろうが、その原因となる器質的な障害は何もない、ということが。
神経痛と言ってしまえばそれまでだが、心因性の疼痛は身体言語である。体が、心に代って何かを訴えているのだ。ならば、こうした痛みの原因が何なのか、探りたいではないか。

そこで仮説。今日の本題だ。
施設は共同生活の場であり、入居者さんは、自分がその他にも大勢いる多くのお年寄りの中の一人でしかないと感じる。
しかし人間はそれでは耐えられない。自分は何かしら特別な意味を持っていなければならないのだ。家族の中なら、自分は例えば「唯一の祖母」といった特別な存在でいられるが、施設ではそれがない。その他大勢と同じだ。
入居者さんを互いに区別しているものがあるとするなら、それは現在のところ、疾病や身体の障害、認知症状が中心である。「あの人は右半身が不自由だから~~だ」「あの人は話したことをすぐ忘れるから~~されている」といった内容で差別化を図ることが多い。だから、自立していればしているほど、頭がしっかりしていればしているほど、自分を「大勢」の中に埋没させてしまう。
そこで、自分に自分で障害を与えるのだ。痛みに苦しんでいれば、それによって自分を他の入所者さんと区別できる。自分が自分でいられる。

自分は何? と問いかけているのだ。自分の体が。

ここで必要なのは、その方に合った支援である。手がかからない方には職員は何もしなくていいからラク、ではない。手がかからないからこそ、職員はその方にしてあげられることを苦労して考えなければならない。
それに、人は身体上の問題や認知症ではなく、自己を実現した結果で区別されるべきなのだ。それには、入居者さん全員が、「左片麻痺の方」といったネガティヴなイメージではなく、「囲碁の大好きな方」などのポジティヴなイメージで想起されるようになったとき、入居者さんも己を差別化できるようになるはずだ。そうなれば自分に障害を与える必要はない。

職員に、「入居者さんをネガティヴなイメージで捉えるのをやめ、ポジティヴに見なさい」と言っているわけではない。自然にそうできるようになったとき、それはきっと入居者さんの多くが自己を実現できている、素晴らしい施設になっているだろう、ということだ。
我々はそこを目指していきたい。

ま、今日のエントリで登場した方は、もっとかまって欲しいだけなのか知れないけれども(^-^;
というか、本当に体のどこかに痛みの源があるのかもね (^-^;;

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