アドボケイト

先日参加した研修で、とある方の講演を聴きながら考えたこと。

(講演の一部の要約)
自立とは、「できるだけ介護を必要としない」状態ではない。「適切に手を貸すことで能力や機能を保つことができる」こと。これは介護する側とされる側が「共立」することでもある。

“自分ができないことを人に任せて良い、そんな場所にいる安心感”を持ってもらうことが大切。他人に委ねるという選択を自らの意思でするなら、「自立」を失っても「自律」は失われない。

では自ら決定できない人は? アドボケイト(代弁)していく。アドボケイトという言葉は、「傍らにいることを許された者」という意味も持っている。

ここで述べられている「自立」の概念は、別に新しいものではなく、むしろソーシャルワークの基本中の基本である。そしてこの「自分のことは自分で決定する=自立」という考えは、その決定ができない方には適用できないので、やむなく「代弁」に置き換えるしかないというのももっともである。
しかし、この「代弁」とは具体的にはどうすればいいのだろう。

①「この方なら、こういう場合にはこうしたいと思うだろう」と推測し、それを実現してあげる
しかし言うまでもなく、その方の個性を100%正確に把握し、思考や行動を正確にシミュレートすることなど不可能である。その「推測」には、援助者の主観が少なからず混入し、押し付けのものになってしまう危険が大きい。また、その方の希望が、明らかに自身の利益にならないこと、例えば喫煙や、24時間ずっとベッドの中で寝ていることなどであったらどうするのか? 援助者は、それでもためらわずにそれを行えるだろうか?

②「自分だったらどうしたいと思うか」を考え、その実現に尽くす
当然ながら、それを考える援助者と、非援助者の個性は異なっているので、自分の希望と相手の希望とが同じとは限らない。
いずれにせよ、援助の際に、相手の立場に自分の身をおいて考え、自分が嫌だと思うことは相手にもしない、という姿勢は常に必要である。特に、施設ではプライバシーや羞恥心をおろそかにしがちなので、我々は常に注意していなければならない。

③「代弁とは、その方にとっての最良の選択をご自身に代わって行っていくこと」とみなす
われわれ介護従事者にとってももっとも無難な、言ってしまえばラクな方法である。

施設では、健康管理や機能訓練等が基本サービスに含まれている以上、健康や身体機能面においてその方の利益を最優先することが、利用契約そのものに含まれると考えることができる。「私たちはあなたのことを一番に考えて行動します。それをご承知の上で入居してくださいね」という問いかけに対して、「はい」と答えて入居しているのだから、嫌がる薬を飲んでもらったりカロリーを制限することも、それが本人の利益である以上やむを得ない。たとえ施設入居が本人の意思でないとしても、一番近しい人間が望んだ以上、施設としてはその方への義務を果たす必要がある。

よって、ある方の「薬はどうしても嫌だから一切飲みたくない」という訴えに対し、「わかりました。そんなに嫌なら飲まなくていいですよ」と答えるのは、むしろ施設が義務を放棄し、「本人が嫌がるのを無理にさせるのはよくない」というのを口実にして面倒なことから逃げているだけになってしまう。もちろんそうした時のベストな対応は、本人に薬の大切さを理解してもらい、納得した上で飲んでもらうことだが、常に、そして誰もがそれを遂行できるわけではない。丁寧な説明が却って反感を買ってしまい、仕方なくこっそり食べ物に混ぜたり、飲んでもらえるまで側を離れず、根負けして飲んでくれるのを待ったりする。そして、自分の促しがいかに下手かを痛感して、さらに自らを成長させたいと願う、それが介護従事者というわけだ。

また、歩けない方が歩こうとするのを黙認し、その結果転倒され、骨折して全く動けなくなってしまったらどうだろう? それがその方にとって幸せなのか? 今できることを保ちながら、できないことはできないと受け入れた上で、少しでも生活に楽しみを見出してもらうべきではないのか? 寝たきりになってしまえば、残念ながら楽しみとなる活動の幅が小さくなってしまうことは否めない。よって、歩くのは危険であることを理解してもらえないのであれば、センサーマットを設置して、歩こうとした時には必ず、たとえ嫌がられようとも介助し、職員を呼んでくれるようになるまで、あるいは安全に車椅子で移動するようになるまで、繰り返すべきではないか? 認知症のために理解することはできなくても、脳が機能している以上、「学習(勉強する、という意味ではなく、心理学で言う条件づけ――ラットがケージの中のレバーを押すと、餌が転がり出てくることを覚えるのと同じような――という意味)」することはできるからだ。

この「代弁=その方にとっての最良の選択をご自身に代わって行っていくこと」というスタンスは現在多くの施設が普通に採っていると思われるもので、決して間違っているわけではない。おそらくは。

しかし、人間は誰しも、それほど理性的な存在ではない。自分のためにならなくても、やりたいことはあるのだ。肥満や痩せ過ぎが健康上のリスクを高めるのは事実だが、と言って、毎日適切なカロリーを摂り続ける自制心など、大抵の人は持ち合わせていないではないか。
「この方だったら」「自分だったら」と考えることによって、自身の価値観を押し付けたり、責務から逃げることは好ましくないが、科学的・倫理的に「正しいこと」ばかりを強いるのも、あまりに寂しい。

「こう考えるのが常にベスト」という方法論は存在しない。我々は、この3通りの考え方を常に戦わせ、その時々でベターな方法を探っていくしかない。このことを自覚していなければ、押し付けになったり、自己満足に終ったり、責務の放棄に繋がるのではないだろうか。

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